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津軽藩起始 浪岡編 (1577-1578)  作者: かんから
第七章 津軽為信、浪岡へ入る 天正六年(1578)晩夏 旧暦七月三日夕
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卑怯 第一話   +浪岡城絵図


 十日ほど前に長老の北畠(きたばたけ)(あき)(のり)が暗殺され、浪岡御所は混乱。津軽為信はこれを好機とみて、兵らを密かに浪岡へ潜伏させた。それも少しずつ何人か、時やルートもわける。顕範の葬儀もあったので街道筋の出入りは激しく、いつもとは見慣れぬ者が通ってもそんなに不審ではなかった。


 ちなみに大浦城から浪岡へ直接向かうには板柳(いたやなぎ)を経由するルートがあった。(現在その道筋をたどることはできず。津軽統一以降、浪岡を中心とするルートのいくつかは意図的に消された。途中半端に形跡を残すのは県道34号線と35号線。)板柳を抜けた先に滝井館(たきいかん)というかつて顕範が対為信のために築いた砦があった。このような事態になると守将がいないので監視の目もすでになく、すんなりと通り過ぎることができただろう。



 加えて浪岡周辺でも多くの兵らを潜ませるだけの受け皿の準備もできていた。それは浪岡北畠氏家臣の中でも為信に付くべきと主張してきた家臣ら。その多くは浪岡に出仕するのを止め様子を窺っていたが、浪岡の町中には彼らの出仕用の屋敷が数多く存在した。加えて浪岡在地の不埒者(ふらちもの)、商家長谷川を拠点として他国者や(あじ)(がさわ)西浜(にしはま)(しゅう)の築いたネットワーク。浪岡が一年以上も揺れていた陰で為信の闇の手が伸び、今まさに成果を上げんとする。



 果ては御所号(ごしょごう)北畠(きたばたけ)(あき)(むら)に対する調略。賭け事にのめりこませ、いつ何時でも使える手段とすること……。ただし他国者など浮浪人のリーダーのヤマノシタという男。あくまで彼は複数いるリーダー格の一人であったが、ちょうど長谷川の若旦那が浪岡に進出するということで付いてきただけに過ぎない。なので為信の策に協力するといっても、成り行き任せな面があった。御所の蔵にある宝物(ほうぶつ)を褒美にと言われたが、顕村が賭け場に通い続ける限りはイカサマで好きなように奪い取れるし、なにも御所へ押し入ってまでせしめる必要性を感じていなかった。



浪岡城絵図

https://18782.mitemin.net/i290006/

挿絵(By みてみん)

2018/02/15  挿絵に関して


出典元:特集 津軽古城址

http://www.town.ajigasawa.lg.jp/mitsunobu/castle.html

鰺ヶ沢町教育委員会 教育課 中田様のご厚意こうい(あずか)りまして掲載が許されております。小説家になろうの運営様にも、本文以外でのURL明記の許可を得ております。


光信公の館

〒038-2725

青森県西津軽郡鰺ヶ沢町大字種里町字大柳90

http://www.town.ajigasawa.lg.jp/mitsunobu/

TEL 0173-79-2535


鰺ヶ沢町教育委員会 教育課

〒038-2792

青森県西津軽郡鰺ヶ沢町大字本町209-2

TEL 0173-72-2111(内線431・433)

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