滅亡への始まり 第五話
旧暦六月二十三日(=現代の暦で八月上旬)、虫の音がけたたましい夏の夜。
長老の北畠顕範とその家族は源常館という屋敷に住んでいる。浪岡御所より歩いて十分ほど、昔はここにアイヌの拠点があったらしく、土地自体は御所よりも古い。
……周りには松明が焚かれ、兵らが何十人も屋敷を守っている。特にここ数日はそうであった。商家長谷川へ問答無用に押し入り、賭け場を摘発した。ただしそれだけでは終わらなかった。裏手から逃げ行く野郎ども。……試しに幾人かを逃がしてみれば、あろうことか浪岡北畠家臣の屋敷へと入っていくではないか。それも多田や唐牛など、もともと為信に付くことを推していた者らのところだ。……もしや御所の顕村を誑かしたのは、為信なのか。津軽大浦の闇の手が迫っている……。
では浪岡を守るため。これらを一掃せねばならぬ。顕範は息子の顕忠にそう語る。ちなみに顕範が六十を超える高齢で、顕忠は四十ぐらいの中年である。
「……今から、本当の意味での独立独歩が始まる。見ておれ、顕忠よ。私が浪岡を立て直す姿を。」
顕忠は父の姿を勇ましく思った。不可能かと思われてきたこと、それがいま始まろうとしている。……酒を呑みかわしつつ話し込んだので、いつしかうとうとと。息子は父に促され、寝床へと向かう。
……襖で入れ違うように、向こうには次の肴を運んできた賄い夫。彼は使用人でしかないので苗字を持たないが、仲間内では蒔苗と名乗るあの男。
持ってきたのは、顕範の好む黄色い食用菊の浸し物。酒の酔いにこのキツさがものすごく合う。特に酸っぱさの強い物に。〆るときはこれを必ず頼む。
……顕範はいつものように箸を伸ばした。何も深く考えることなく。
横よりブスリと、鈍い音がした。
血が激しく吹き出ることはなく、その高貴な青い鮮やかな絹の衣に、次第に真っ赤な色が滲みでる。
顕範は目をカッと見開き、賄い夫の顔をまじまじと見た。口を引きつらせ、何か言おうとしたのかもしれないが、その微かな動きさえも無くなり、……息絶えた。
なお顕範が大声を出すことなかったので、蒔苗は無事逃げうせることができたという。