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津軽藩起始 浪岡編 (1577-1578)  作者: かんから
第五章 北畠顕範暗殺 天正六年(1578)夏
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真相 第四話


 北畠(きたばたけ)(あき)(むら)(よし)(まち)と同じく賭け事にはまり、特に負けても懐が痛むような身分ではないので、純粋に勝ちを目指して興じていく。負けが込めば御所の蔵より財宝を持ち出し、あるいは自ら賭けるために出し、そのたびにしてやられることも多かった。……負ける苦しみも味わったのにもかかわらず、続ける愚か者。




 表舞台の出来事はというと、滝本(たきもと)重行(しげゆき)は依然として浪岡に居座り、浪岡の兵や民衆に対し演習を行っていた。管領の水谷(みずたに)は浪岡の不満を知りつつ、これは将来のためだと滝本へ従った。多くの者が水谷と同じくし、表層においては長老の北畠(きたばたけ)(あき)(のり)も同じだった。だが一方で先の場で設けた期限、“一年”。最初の一年は浪岡で、次の一年は油川(あぶらかわ)奥瀬(おくせ)の兵を。実際は一年たてば滝本は浪岡にとって用済み。その時に初めて浪岡は独立独歩で始まる。それは南部氏と津軽大浦氏の緩衝地帯として、軍事面でもある一定の強さを持ちながら。


 ……次第に顕範への支持は増えていった。浪岡の民の窮状を決して見逃せるものではなく、このままでは疲弊して自滅する。滝本にとって大光寺の民衆は従順で代々の支持もあり、協力的だったかもしれない。しかし浪岡の民はどちらかというとおっとりしていて、やはり浪岡北畠氏の気風もあるのだろうか。長く同じ主君のおひざ元にあれば、民もそれ相応に染まっていく。そんな彼らに滝本のやり方は合わなかった。



 そして顕範は自らの支持を高めるため、一種のデモンストレーションを敢行。秋の農繁期、もともと滝本はさすがに収穫時期で農民らは忙しいだろうと、訓練の手を緩めるつもりでいた。そこへ先んじて顕範は“まだ滝本は演習を続けようとしている”とのたまい、積極的に悪者へ仕立て上げた。田楽の音色に乗せて顕範が畦道を歩くさまは、あたかも救世主のごとく思えただろう。


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