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津軽藩起始 浪岡編 (1577-1578)  作者: かんから
第四章 北畠顕村、策に嵌る 天正五年(1577)夏
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謀の道 第一話   +浪岡近郊経路図


 梅雨は明け、夏となる。浪岡周辺では為信に対抗すべく、慌ただしさが増す。


 まずは南部氏代官の滝本(たきもと)重行(しげゆき)による民をも巻き込んだ軍事調練である。これまでの平和を享受しきっている御所の兵ら。民も同じであり、夕暮れに八日町(ようかまち)などを歩くと、へとへとに疲れた町人の姿が見受けられる。三日に一日は女子供も召集したが、これは滝本の 「籠るときは女子供も一緒。単純に彼女らも活躍すれば兵が”二倍“であろう」という考えによる。


 民衆はこの調練によって集団的な抵抗の仕方、槍で一斉につく動きや石などを遠くへ投げる動きなどを学ぶ。一方で暮らしの時間をとられる民ら、商売をしている者は産物を仕入れることや売ることができないし、農家であれば田畑を耕すこともできない。特に収穫の秋はどうするのかと不満がる声が多く出ていた。



 それら鬱憤が御所に向かうかというと……長老の北畠(きたばたけ)(あき)(のり)はうまい具合にそらす。すべては滝本の命令であり、我らは仕方なく従っているだけ……という体で、民をうまくだましていた。それはいずれ滝本を追い出すときの一つの布石となる。


 なお浪岡北畠氏としては滝本だけにすべてを任せていた訳ではなかった。浪岡は南部と結びなおしたことにより、直近の敵は(ため)(のぶ)となる。大浦おおうら城は浪岡より南西の方向にある。攻めてくるのも当然こちらからということで、両管領の一人である水谷(みずたに)氏の水木(みずき)館、石堂(いしどう)氏拠点の(ます)館、そして新たに顕範自ら滝井たきいという場所に砦を築いた。三つの拠点は南西に向けて弧を描くように配置されており、それぞれ平野であるので防御性を心配されたが、曲がりくねった河川、それも大小入り混じっているので天然の守りとして利用できる。攻めてきたときには堰を切るなどして侵攻を防ぎ、さらには水流の勢いで敵兵らを溺れさせることもできよう。



 浪岡三館の弧(自己作成分)

https://18782.mitemin.net/i286074/

挿絵(By みてみん)

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