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津軽藩起始 浪岡編 (1577-1578)  作者: かんから
第二章 森岡信治葬儀 天正五年(1577)桜時
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家中安泰 第五話


「して……兼平(かねひら)の様子はどうだ。」



 沼田(ぬまた)は一息おく。


「兼平殿、この度の葬儀に参加できずたいそう残念と申していたそうです。」


 言うのと共に、一つの封書を(ため)(のぶ)に差し出した。……為信は改めて真ん中の灯の前に紙を広げ、静かに読み始める。





 元をただすと、為信決起以前に遡る。かつての津軽地方は南部(なんぶ)()が実効支配しつつ、古くからの権威として浪岡(なみおか)北畠(きたばたけ)()が存在した。しかし永禄五年(1562)、“川原(かわはら)御所(ごしょ)(らん)”という浪岡家中で内紛が発生。これを契機に浪岡の地位は衰え、南部氏及び南部氏のおく津軽(つがる)郡代(ぐんだい)の力がさらに強まった。


 だが元亀一年(1570)勃発の“()(うら)(へん)”で南部家中も分裂。次いで為信の躍進により変化が生じた。


 ……つまり、津軽地方から南部氏という実質支配者が消え、浪岡の権威だけが残った。今は浪岡の守りとしてそとがはま奥瀬(おくせ)()が南部氏より任じられてはいるが、外部の勢力であるし力は及ぼしにくい。


 一方で為信は石川(いしかわ)(じょう)を手に入れ大光寺(だいこうじ)(じょう)を攻め落とした。このまま周りの勢力を飲み込むかと思いきや、そう単純にはいかない。為信は東の南部氏に対抗するために南の安東(あんどう)()と結んでいる。その安東氏は浪岡北畠氏と姻戚関係を持つ。……いまだ残る中小の領主らのほとんどは旧来伝統的に浪岡北畠氏の家臣であった。南部氏の支配からは遠のいたものの、もし攻め込みでもしたら浪岡北畠氏の敵とみなされ、ひいては安東氏との手切れにつながる。


 そこで為信は家臣の兼平(かねひら)綱則(つなのり)を浪岡に詰めさせ、南部氏とのこれまでの関係を切り我が方へ付くように粘り強く説得を続けさせていた。



 説得のために重要になるのが、大義名分である。


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