第二十二話 愚者のダンス
「死ねってのかよ」
赤原のデスクには山積みにされた紙と、倒れた缶コーヒーがあった。明日の会議で使う資料を染めながらコーヒーは川を作っていく。とにかく手を動かしてコーヒーの氾濫からほかの紙を避難させる。会議資料以外は無視できる程度の染みで済んだ。資料はまたコピーのし直しだ。乾く目でパソコンをのぞき込んで元データを探す。まだまだやることはあるのに、さらに作業を追加しなくてはならない。もうすぐ九時だが、赤原は給湯室のお茶うけとコーヒーしか口にしておらずろくに夕食を摂っていなかった。
「あのクソ野郎……」
赤原の担当している取引先の鶴見大介が、今日いきなり会社に来た。電話もなしに押し掛け、赤原の上司に苦情という名のただの悪口をして帰っていった。その対応で昼はほとんど仕事ができず、何もかも後手後手。苦情の内容も明らかに鶴見の商品の発注ミスだというに、誰も赤原を庇わず、冷めた目でこちらを見るだけ。主任には鶴見が帰った後に怒鳴られるわ、どうしようもない一日だった。
『駄目駄目だな』
「っ!」
耳元であの鶴見の声がした気がした。振り返ってみても会社には赤原しかいない。最近、こんなことばかりだ。嫌なことばかり思い出す、考える。そして、それは生々しく再現され赤原にまとわりつく。何でもない物陰が人の形に浮き上がり、監視されている気分になったりもする。
「どうしろってんだ」
使えなくなった資料をシュレッダーにかけながら、そんな言葉がこぼれた。紙がシュレッダーに食べられていくのを見ている時間くらいしか、休める時がない。家で眠るときすら、明日の業務にせかされて横になるのだ。単調で、見えて進度のわかるシュレッダーかけを永遠にしていたい。小難しい契約書や、発注数の数字の並ぶ紙面を今見たら脳のブレーカーが落ちてしまいそうだ。
シュレッダーが紙を飲み込むのをやめる。内側からひっかくような変な音をさせて、苦しそうに異常を知らせる。
「は」
思考を停止させて、手を動かす。紙詰まりはたまにある。手順に従って紙を取り除けば問題なくこれは動く。ボタンを押して、紙を吐き出させる。……動かない。尋常でなく詰まってしまい、刃を逆回転させることもできない。コーヒーで濡れていたせいか。普通なら、濡れた紙なんて通さないから仕方ない。
仕方ない?
は? ふざけてんじゃねえよ寝ぼけんな動け動け動け。
思考に歯止めがかからなくなる。少し先のことでも正視したら動けなくなるのに。だって、どう考えても、絶対に――――。
なんで俺ばっかりこんなことしてんだよ。あー頭おかしいやつばっかで嫌んなる。無能め。何が言いてえんだよ、はっきり言えばいい。あいつが悪い。不細工でデブとか救いようないクソだなあれは。俺は仲間はずれってか。主任も昔はよくしてくれたのに。この俺が動けってんだのにこいつまで。軽んじられてる。後でみんな吠え面かくに決まってる。何もどうしても駄目。腹減った。やめやめやめだ、こんなこと。なんでクソ真面目に残業してんだ。
――絶対に明日まで間に合わない。
今抱えている業務は細々としたものばかりだが、ぎりぎりに仕事を回してくるせいで許容範囲を超えている。嫌がらせだ。でも、昼に鶴見が来なけりゃ、終わったんだ。そうに決まってる。そうでなければ、職場で俺だけの業務が滞っている理由が付かない。
そうだろう? 毎日寝る時間、遊ぶ時間削って働いて、それで得られるのが『俺は無能です』って証明だけなんて……。
「割に合わない……。ははっ、割に合わないってもんじゃねえよ!」
シュレッダーを殴る。拳がとても痛かった。それでも、止められない。息が切れるまで殴ってはたいて、その場に膝をついた。
絶対に殺してやる。絶対に許さない。
今まで鶴見に、職場の人間に殺意を抱くことはままあった。それでも、そんなものただの願望で本気なわけがなかった。赤原にとって殺意が、頭の中の残酷な妄想以上のものとなったのは、このときからだった。
継己が窓から見下ろすと、赤原がうつ伏せに倒れているのが見えた。安否はわからない。動かないところから見るに、意識はないのかもしれない。そうすると頭を打っている可能性もある。二階からとはいえ、打ちどころ次第では死ぬこともある。
「早くしないと……」
走りだそうとする継己を千鳥が腕を掴んで止める。
「あれが見えないのか」
そう指し示す先にはカラスが弧を描いて飛んでいた。赤原に近づいたり、離れたりを繰り返している。この局面で野生のカラスが肉をついばみに来るわけもない。大路のものが、何らかの手段でここを嗅ぎつけたのだ。
「でも、重傷なら急がないと僕でも直せなくなる。行かせて」
「わかってる。だがまだ相手の数もわからない。もう少し待ったほうがいい」
「僕らのせいでまた人が死ぬんだよ!? それは、駄目だ。『厄』を集めるにしても、人死には一人で多大な量になる。赤原さんまで死なせる必要はないよ」
継己は掴まれたまま構わず玄関に向かう。華奢な腕は、力をこめれば折れてしまいそうで、千鳥は怖くて引き留められなかった。自分が継己を傷つけてしまうのが怖い。だって、きっと、継己は自分がいなくても平気なのだから。
「待て。君がもし捕まったらどうする? お互い、閏木の呪縛から解放されるのが目的だったろう。赤原は替えがきくんだ、だから――」
「千鳥!」
いつもの舌っ足らずな呼び方でない、迫力のある物言いに、たじろぐ。継己は優しく、腕から千鳥の指を外すと千鳥と正面から目を合わせた。怒っているわけでもない、ただ無表情な継己を千鳥は何も言えず見つめ返す。
「いい? ちどりは自分のことだけ考えてくれればいいよ。だから、僕のために酷いことなんてしないで。誰かを傷つけなくても、きっと幸せになれるから。僕が捕まったら、ちどりは逃げるんだよ」
継己は手持ちの術式を数えて、駆け出した。閉まる扉に、千鳥も重い手を伸ばす。
このまま行かせてはいけない。継己を守るのは私だ。
千鳥はとっくに気が付いていた。自分が継己のために、など思ってもないことに。継己は、本家の人間。千鳥が守るまでもなく強く、そして正しい。それでも守らなければならないのは、千鳥のエゴでしかない。
「継己」
カラスの下に平気で飛び出す背を放っておけない。千鳥は助走をつけて踏み切り、カラスへと拳を繰り出す。旋回して避ける相手を確認して、着地とともに周囲の気配を探った。




