第二十一話 最善
午後一時ともなると流石に二人とも空腹で、昼食にすることにした。隠すわけにもいかないので、順子をしばらく行動不能にしたことは共有する。運よく余一の奇襲が成功した、とちどりを刺激しないように脚色してしまったが問題ないだろう。あの様子だとしばらく順子は前線には来られないだろうから。ちどりと昼食の支度をしに台所へ向かう。二人とも料理はほとんどしたことはなかったが、家出してから炒め物くらいはするようになった。
「冷蔵庫、何があったっけ?」
「まあ何か残ってたのは確かだ」
トイレの前を通り過ぎようとしたとき、扉が勢いよく開いた。開ききって壁にぶち当たるほどの勢いの強さに、ちどりが不機嫌な顔になる。
「おい、赤原……」
小言の一つ二つでも言おうとしたのだと思う。
「ああぁぁああああああぁぁっっ!」
背筋が冷えるような痛切な叫び声。灰色の折り畳み式電話が壁に投げつけられ、赤原が千鳥を突き飛ばして、壁に、物に、ぶつかることも厭わずに飛び出す。赤原は結界の張られた窓に肩口から突進する。結界は波紋のような揺らめきを見せるが、固い感触で赤原を跳ね返す。赤原は半狂乱で窓の錠に手をかける。
「なんであいつから電話、電話がくるんだっ。畜生、チクショー! ああああああああ!」
関わりたくない。千鳥はもはや自分の意志で動かなかった。もたつく赤原を今から止めることはできるかもしれないが、やりたくない。触りたくない。話したくない、見たくない。
青ざめる千鳥をかばうように継己が前に出る。赤原に躊躇いなく近づく。
錠はただ上にターンさせるだけの簡単なものだったが、赤原は恐怖のために人間らしい動作の一切を忘却していた。たっぷり五秒かけてやっと開錠する。力の加減ができていないせいか、窓にかけたいくつかの指の爪は割れていた。赤原は窓枠に足もかけ、飛び出そうとする。
「赤原さん、落ち着いて!」
継己が腰に抱き着き、必死に止める。
「離せええぇぇっ」
体をよじって継己の頭を殴りつける。均衡の取れない姿勢であるが、たがの外れた赤原の力は異常で、一撃ごとに継己の目の前がちかちかと光った。
「やめろ。継己を、殴るな」
力ない口調ながらも、千鳥もなんとか嫌悪感をおしこめて赤原を止めに入る。赤原を羽交い絞めにして、窓から引きはがした。千鳥は歯を食いしばり、無言で赤原の抵抗に耐える。全身が総毛だつのを感じながら、何も考えないようにしていた。
どうしてこいつはこんなに喚くんだ。
「お前らもっ、鶴見の仲間だったんだな! 寄ってたかってそんなに俺を苦しめるのは楽しいか! この人間のクズめっ、死んでしまええぇえ」
赤原は目をむいて怒鳴る。うだつの上がらないこの男のどこから、こんな大声が出るというのか。空気が震える。千鳥のほうが力は強いし、武術の心得もある。赤原は身動きができない。だがそれでも抵抗は続き、赤原自身の肩が外れてしまいそうだった。本当に、今逃げ出せなければ死ぬとでも信じているようだ。
「赤原さん。落ち着いて」
継己が赤原の正面に立ち、ゆっくりと呼びかける。
「うるさいぃぃぃぃ」
「赤原さん……!」
継己が再度呼びかけるが、聞く耳を持たない。赤原は継己を遠ざけようと、滅茶苦茶に足を蹴り上げる。つま先が継己の鼻先を掠める。
「――――っ!」
千鳥はそれに気を取られてしまった。赤原が腕を後ろにまわして、思い切り千鳥の顔に爪を立てた。避けきれない。頬に焼け付く痛みを感じて、もともと嫌悪感から離したがっていた腕を離してしまう。
赤原は、何者からも解放された。
赤原の前にあるのはひろいひろい空。歓喜の表情で、赤原は理不尽と恐怖の巣窟から飛び出す。
「ああ、よかった」
アスファルトにぶつかる直前、彼は確かにそう言ったのだった。
その頭上で、祝福するように高らかにカラスが鳴いた。




