第二十話 悪意の効用
大路 志義は見ていた。長元坊が倒され、拘束されたことを。余一によって彼女が最も忌み嫌う辱めを受けたことも、見ていた。大路が空に散らした烏の視点を使って、彼は町を掌握していた。
長元坊がやられても、彼はかすかに眉を動かしたのみであったが、それは上に立つものとして自制がなされたにすぎない。
長元坊につけた部下からも長元坊の敗北が報告され、志義の指示をあおぐ。
「おう。屋敷に移送して治療してやってくれ」
軽い調子で返事をして、周りの偵察班を安心させる。志義の片腕である順子の敗北で焦りや恐れが彼らの顔に浮かんでいた。志義は歯を見せて大笑いした。
「おいおい! 俺らの作戦はこっからだぞ、気ぃ抜くな。今回は順子が勝てばラッキーな試合だしな」
志義の部下は志義よりも年上であることが多かったが、志義への信頼は絶大で、途端に安心して作業に当たるようになった。志義が当主を継いだのはほんの三年前の二十七歳の時だった。父を飛ばして当主となったのは、父本人の推薦による。それほどまでに志義は人心を掴むことにたけたカリスマだった。金髪、呆れるほどに陽気な性格に若すぎるほどの若さは、ともすれば古風な分家連中から反発を受けそうなものだったが、それすらも逆手に取った。志義への油断、侮り、期待値の低さを志義への関心、尊敬、親愛へと変換させるくらいのことは志義にはなんてことはない。油断があれば簡単に懐に潜り込めるし、侮りは恐怖ですぐ旗色を変えた。他人に期待するばかりで一人で行動もできない愚か者は、舌先だけで志義の足元に跪いた。
順子は、最初から志義に従った数少ない部下の一人だった。だから、志義は報奨として彼女に長元坊の名前を与えた。順子は、能力は高いのになぜか自信のない人物で、戦いに向かない自分を恥じていた。だから、順子に自信と、変わるきっかけを与えた。
「順子、お前はよくやった。負けたことを恥じるなよ……」
車に乗せられ、この屋敷に送られる順子に届かなくともそう言ってやりたかった。次なる作戦が終わるまで、まだ本人に労いを言えないもどかしさに、珍しく志義は当主の役職を疎ましく思った。
・・・・・・・
武器の点検をしながら千鳥はまた時計を見上げた。一時を過ぎた短針。秒針は居眠りしているような遅さで動く。眉根を寄せて千鳥は手を止める。不安、焦り、苛立ち……どれも合っているようで、またどれも千鳥の心情を表すのには不十分だった。
階段を上がってくる足音が聞こえたとき、手にしたリングを放り出さんばかりの勢いで立ち上がった。リズミカルなノックに続いて玄関の戸が開かれる。
「ただいまー」
継己が帰ってきた。継己は部屋の結界を検めるとソファに体をあずけて座り込んだ。
「おかえり。首尾よくいったか?」
対面に千鳥も移動して座る。口にしてからやけに静かなことに気づく。余一がいないのだ。扉のほうとなんとなく窓のほうへも首をめぐらして見渡す。窓の割れた部分は結界でシャボンのような膜が張ってあった。
「あ、余一? 余一はなんかこっち帰るとき自分の家に帰っちゃった。魔法具の手持ちが心もとないとかで」
「あいつ、役に立ったのか?」
「うん。大路家の偵察とかすぐに気づいてけっこう楽に移動できたよ。強かったし」
「……まさか、大路の誰かと戦ったのか!?」
応接机に手をついて身を乗り出す。灰皿が少し飛び上がった。
「いやいや、大したことなかったよ。僕と余一で返り討ちにしちゃったし」
不安がらせないように明るくふるまう。継己は千鳥の反応を見越していたので、予め傷は念入りに直していた。服の破けは魔法で隠しているだけなので、着替えたらこっそり捨てるつもりだった。
「大したことはないって、そんなこと……。大路は儀式遂行のために躍起になってる、本当に酷いことはされなかったのか」
千鳥も、継己の魔法が強力であることは知っている。たとえ腕がちぎれても直すくらいはできてしまうのだ。継己は静かにほほ笑むだけで嘘を吐いているのかはわからない。けれど、どちらにしてもその笑みは千鳥を気遣うものなのはわかる。自分の不甲斐なさへの怒りも、継己への疑念も、その笑みで溶かされてしまう。
「……私が君を守る。それだけは覚えていてくれ」
眉をひそめ、吐き捨てるようにそう告げる。
「わかった」
二人が目を合わせたそのとき、隣室から異音が聞こえてきた。
液体をぶちまけたような音と、低く唸るような赤原の声は嫌でも隣のトイレで何が起こっているのか物語っている。
「あいつ。飲みすぎだ、こっちまで気分が悪くなる」
「ははは……」
嫌悪感も露わに赤原を腐す千鳥の話を聞いて、継己は逆に赤原に感謝していた。ちどりには、どんな形であれ本音で話せる人が必要だ。深刻に陥りがちなちどりに肩の力を抜かせることができる、余一や赤原は、ちどりは嫌っているけれど、いい相性だと思う。
いついなくなるかわからない僕に全てを賭けてしまうよりも、ちどりにはもっと広い繋がりを持ってほしい。




