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第十九話 憧れ、温度はない

 長元坊は、手の傷を治されたあとテグスで拘束された。余一が両手首を縛って、パチンコ屋のフェンスに繋いだ。携帯電話は破壊、継己は長元坊に頭を下げて、上着とポシェットを少し離れたところに置いた。

「僕は、大路と戦いたいわけではありません。僕は、八色(やしき)おじさんや、千鳥とか、次の『継己』もつらい思いをしない余日町(よっかちょう)にできれば、と思っています」

 『継己』は、生贄たちに継承される名前だ。閏木の依り代が枯れる兆候が現れたとき、八条家の庶子は『継己』となる儀式を受ける。今までの名前は奪われ、誰からも忘れられる。文字、音声の形で残していても無駄だ。朔の儀が終わるまで人々はその名前を認識できない。『継己』という文字、『つぐみ』という音にしか理解できなくなる。

「大路家に乗り込むのノリノリだったくせにさ~。あはは」

「大路と対立してるからね。僕だってやられたままで平気じゃないよ。ただ、僕は大路を殲滅するためは戦わない。あくまでも無力化させてもらって、僕のやり方で閏木と決着をつけたい。だから、あんなに怒っている千鳥には大路と戦ってほしくなかった」

 千鳥は、大路を人と思っていないだろう。障害物、敵、そんな言葉にすでに置き換わってしまっている。とても優しい子だったのに、どうして鶴見が死んでも平気な顔をしているのだろう。継己は、自分が『継己』になったあたりからどこか自分の感情が鈍くなっていることを感じていた。だから、せめて千鳥には『人間』らしくいてほしかった。人の死に対して鈍感な自分は、いつか平気で間違ったことをしてしまう。

今は病床にいる父がまだ元気だったころだ、尋ねたことがある。

『今、何をしても楽しくない、悲しくない、怒ることもない。僕はもう人じゃなくて、生贄(イケニエ)なのかな』

 父は、歴代の『継己』も、感覚が鈍くなるものがいたと教えてくれた。それから、継己を励ます優しい言葉をかけてくれた。大きな手で頭を撫でてくれた。以前に頭を撫でられて褒められたときは飛び上がるほど嬉しかった。叱られたあと撫でられたときも、泣いてしまったけれど安心して、頑張ろうと思えた。

 継己は記憶の中のものとそのときの父の手を比べた。『継己』となった彼にはその手は重いだけで、温かいかどうかも感じ取れなかった。

 継己が無表情なままで父は心配そうにまた言葉をかけた。継己は、それに気が付いて笑った。にっこりと笑うことはできなくて、はにかむように、まなじりを下げ、口元を緩めた。そのときに決めた。

 誰かのためになろう。自分よりも繊細で、自分よりも幸せを望む人のために。

 僕はもう、自分の名前すら思い出すことはないだろうから。

 淡い感傷を溜め息でごまかして、継己は顔を上げた。あの時は『継己』になったばかりで五感すら薄かった。今はあの時ほどではない。痛みも、暑さ寒さもある。ただどうしようもなく心が動かない。

「跡が残らなそうで良かった。僕らと敵対していたって大けがするのは、嫌です」

 人の痛みにすら鈍くなったらおしまいだ。それが継己を人たらしめている最後のくびきであると思っていた。

「ふふふ。八条のお坊ちゃんは絵空事を平気で言うんですのね」

 棘のあるマスカラで冷笑。(とら)われとなっても敵対者への揺さぶりをかけ、イニシアチブを取ろうとする魂胆だろう。隙があれば喰らいつく。

「はいはい、俺の継己ちゃんを口説かないでね。ったく切り替えが早いというかしつこいというか」

 余一が乱暴にポシェットを掴んで逆さに振る。

「ちょっと。せっかく綺麗にして置いたのに」

「いーの。武力解除にご協力を」

 余一はメイク落としのウェットティッシュを惜しげもなく何枚も引っ張り出した。

「あ。やめなさい! 嫌ぁっ! やめて、戦うのはワタクシよっ!ワタクシなの! この卑怯者、ぐう」

 片手で首を掴んでもう片方でごしごしとメイクを落とす。不自然なほどぷっつりと声が途切れる。余一が手を離すと、勝気な美人はそこにはおらず、平凡という言葉でしか修飾できない女性が残った。

「はいおしまい。行こうか」

「余一の馬鹿」

 無理やりメイクを剥がされたのがショックだったのか、順子の目は二人すら捉えていなかった。寝起きのような虚ろさで地面を見つめている。

 継己は順子に何もできない。酷いことをした、それだけはわかったけれど、もう行かなくてはならなかった。順子には助けがこれから来るだろう。千鳥には、自分たちが行かなければ手を差し伸べてくれる人がいない。千鳥のために、継己は余一の後を追って帰路についた。

 『誰かのため』が免罪符にならないことは、理屈で知っていた。テグスで切り傷だらけになった、順子の手首。歩を進めながら、継己はそれを忘れないように努めた。

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