第一話 トラトラツグミ
「困ったなあ。困ったなあ、困ったなあ!」
汚らしくもフケが飛び散るほどに赤原は頭を搔き毟った。千鳥は顔をしかめるも、何も言わない。この男と会話する不快さを思えば、まだ勝手にわめかれたほうが良かった。
「ねえ、千鳥ちゃん。お金、貸してくれるかな。タバコ切らしちゃって」
しかし、露骨な千鳥の態度に気づく赤原でもなかった。背広から空箱のタバコを取り出してにやにやといやらしく笑う。本人はその笑いに茶目っ気があると思っていそうなのが救いようもない。
「これからのことに必要ならばそう致しますけど。あとで経費として請求させていただきますから」
目も合わさずそう告げる。真夜中の商店街に二人はいた。見る人が見れば怪しい関係にも見えるであろうか。この二人は契約関係だった。雇用主と雇用者。
赤原は千鳥から五百円を受け取ると大して罪悪感も見せずに自販機に向かう。腕を取り出し口にぶつけながら赤原はそれを取り出し、すぐさま封を切ってうまそうに吸った。指先が震えていたのが千鳥からもはっきりと見えた。
「今の若い子はタバコ、あんまり吸わないんだってね」
若いも何も千鳥は十八だった。まだタバコを吸える年ではない。
「…………そうですね」
紫煙は二人の間を通り抜け、すぐに闇にまぎれた。千鳥は辺りを見渡している。赤原のこともあるが仕事上、油断ならない状況なのだった。商店街は、全てシャッターが下ろされている。ここに来るのは、いや、今ここに来られるのは限られた人間だけである。赤原がタバコの灰を落としたとき、バイブレーションの唸るような音が響いた。ワンコール分だけで短い唸りは鳴り止む。
「お相手が来ます。所定の位置に動いてください」
「ったく、まだ吸いきってないってのに」
赤原は吸殻を路上に捨てると、商店街のアーケードの真ん中に移動した。千鳥のほうは吸殻の火を踏み消し、足音もなく路地裏に消える。
静寂の質が変わった。先ほどまでの、澄んだ、凪いだ泉のような静けさではない。音を発するもの、息づくモノを浮き彫りにし、迫害するような静けさである。
「クソが」
赤原は独りごちた。赤原は場の空気の変化すらわからなかった。うしろ、ベルトの辺りに手をやる。刃渡り二十センチほどのナイフが握られていた。慣れている持ち方ではない。振り回せば手を滑らせて落としてしまいそうだった。
「危険があればすぐにサポートします。ご健闘を」
千鳥の声が闇のなかを木霊して響く。
「ああ、ああ。わかってるっての」
五月蝿そうに赤原は頭を振った。そのとき、商店街の入り口に人影が現れた。赤原と同様に背広を着た男だ。酒太りなのか、腹回りだけに脂肪がついている。嫌な目付きの中年だった。赤原の目に赤黒い私怨の炎がともる。
『こんな程度でご自慢のプランだって? 悪いが貴方では話にならない』
赤原の耳に何万回目のフレーズが届く。いつも馬鹿にされた。恥をかかされた。頑張っても頑張らなくても結果は同じだった。同僚は取引先とうまくやってる。俺はどうして契約が取れない。
震えていた切っ先がピタリと止まる。前方十メートル。まばらな街灯でもお互いの顔が視認できる距離になった。男は不審に思ったのかやっと足を止めた。
「死ね」
その言葉は、自己を奮い起こすでもなく、相手を震え上がらせるでもなかった。ただの宣告。赤原は、もつれるように駆けていた。