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第十三話 ひとの頭の中に居座らないでくれ

 なにやら騒がしい。部屋の明るさからすると昼頃になっているようだった。千鳥は半身を起こして、すぐにうめき声とともに鼻を押さえた。酷い匂いだった。煙草、酒、濃密な臭気が狭い室内に満ちている。

「はっくしょーいっ。ずず……」

 エチケットのなっていないくしゃみを赤原がする。手にはワンカップ、机の上に既に空のものが二つ並んでいた。

「…………」

 大声を出すにはこの部屋の空気を吸わなくてはならない。そもそも嫌悪感から頭が回らなかった。こんなに不愉快な人間がこの世にいること自体が信じられなかった。これにも子供時代があって教育を受けた期間があったというのなど、想像できない。同じ空間にいるだけで苦痛とは毛虫やグロテスクな外見の昆虫といい勝負である。部屋を見回す。

「彼氏さんとアホそうなのっぽは出てったぞ。ナンパだってよ」

 くつくつとのどの奥で笑う様子からして、いつもの千鳥を逆撫でする遊びのようだった。とりあえず隣の給湯室に行く。寝起きから血圧が上がった頭を冷やしたかった。腹を減ったとうるさい赤原に冷蔵庫の魚肉ソーセージと食パンを投げ付けて、扉を閉める。基本的に赤原は横着するので、こっちに来てまで文句は言わない。大人なら自分のことは自分でしてほしい。痒くなって、爪を立てて首をひっかく。一か月と少し前に擦り傷ができてから痒みがしつこくて引かない。これ以上ひどくなると目立つだろうから、触らないようにしないと。コップに水道水を注ぐ。冷たい水がのどを通ると頭がさえてきた。熱を持った首筋に、コップを持って冷えた手を添える。

 事務室に戻る。まずは換気をして、赤原は睨んで黙らせた。具体的に言うと、ボールペンを片手で二つに折りながらじっと十秒ほど見つめた。野蛮にな相手には同じ水準で語るしかない。赤原を人としてみなすのにそろそろ限界が来ていた。執務デスクを見るとメモがある。

『大路の屋敷の下見に行ってきます。変装してるし、攪乱に式飛ばしてるので多分大丈夫。三時くらいに帰る予定』

 メモの端には()(いち)の漫画チックな似顔絵がふきだしで『待っててね☆』とウインクしており、妙にうまいのがイラついた。

「なンか指名手配されてるんだってな。はん、つまみも買いに出れない。苦労しちまうなあ」

「……。窮屈な思いをさせて申し訳ございません。こちらの邪魔をする勢力は速やかに排除する方針です」

「もっと可愛い千鳥ちゃんと話がしたいなあ。ロボットみたいな話し方されても」

 三つ目のワンカップが机に並んだ。脅しなら昨晩もかけていたような気がするが、すぐ絡んでくる。そういえば赤原は都合の悪いことは覚えていられない鳥頭なのだった。

 差し当たってすることもないので、着替えやら洗面やらを済ませておく。事務所とはいえ、泊まり込んで仕事をすることも想定したつくりになっていて、かなり生活感がある。シャワーを浴びたかったが、赤原と留守番中というのが気に入らなかったのでやめた。ケータイをチェックしたが、連絡はない。つい何度もメールの更新をしてしまうが、迷惑メールすら無かった。トラブルメーカーを連れて歩いているのだから、無事に帰ってこられるのかとどうも落ち着かない。外出もできないし、とそこで自分も式を飛ばそうかと思い付いた。術式を書いて、鳥などに変化させ、それが見聞きした情報を共有する。万一大路に見つかってしまったとしてもそうそうこちらの場所がわかるわけでは無い。問題はない。

 本来ならばほんの些事なのだけれど。

 部屋の隅に置いてある黒鞄を持ってきて膝の上に載せる。会社員に見えるように、通勤鞄によくあるデザインのものにしてある。術式用の和紙の束を取り出す。術式はどこに書いても発動はするが、ちゃんと手順に則った方法で作った紙のほうが術の出来がいいし、書きやすい。

 馴染み深いざらついた和紙に手をかけると、また首元が痒くなってきた。無視して鞄から筆と携帯用のすずりと墨汁を出す。筆はとても冷たくて重たかった。こんなに重い訳がない。筆先がふらふらして、これではのたうち回るような文字しか書けないだろう。少し持っただけなのに、汗でぐちゃぐちゃしてきて気持ち悪い。

 たまらず筆を置く。ボールペンやただのメモなら何ともないのに、術式の道具に触るとこうなのだ。もう二度と術式なんて書きたくない。そうも言っていられないというのに、自分を律しようと努めても否応なく吐き気や寒気が襲ってくる。余一と話しているときははぐらかしたが、多分アレは気づいているのだろう。継己には黙っている。

「なあ、確認してえんだけど。俺、鶴見殺したよな?」

 赤原は酒が回ってきたのか目がとろんとしていた。酒が強いほうではない。顔も耳まで赤い。

「はい」

 声が平坦になるように気を付けて答える。赤原はソファに寝転がり、向かいのソファのあたりを見ていた。

「じゃあ何で、夢の中でまだあいつに怒鳴りつけられるんだ? 本当に死んだのか? そうだ、口を縫い付けるのを忘れたな……。だからか」

 無表情に立ち上がる。事務室を出て、扉の音からしてトイレに入って行ったようだった。ずっと何かを呟いていたのが気持ち悪かった。部屋の空気も十分入れ替わっただろうに、相変わらず居心地が悪いのは「場」が赤原に穢されているからなのかもしれない。一人目にして始まりの殺人が起こり、変質せずにはいられなかったか。赤原という存在が悪化することは、千鳥と継己に必要なことだ。厄がこの町の幸福を左右する。おかしなことなのかもしれない。けれど当然のような気もする。全ての人が幸せになることなど、夢物語なのだから。幸福を得るためには、同等の不幸を対価にするのが妥当と言えば妥当だ。それは他者を犠牲とすることだったり、未来の成功のために虐げられることであるかもしれない。

 八色(やしき)さんは、(うるう)()に求めすぎだ。綺麗事だけではないから、現在まで閏木は力を持っているのだと思う。

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