第四章 「僕が不運なのは一体誰のせいだっ!」
雲一つない綺麗な青空――。
爽やかな日差しが、朝の教室に優しく降り注いできた。
担任が訪れるまでのわずかな時間を、クラスメイトたちは雑談などを交わしながら楽しげに過ごしている。
だがそんな和やかな空気をぶち壊す、男子生徒が一人いた。
なにを隠そう、それはこの僕だ。
「大切な人が苦境に立たされているっていう時に、その原因を作った張本人が夏風邪をこじらせて欠席とは、一体全体どういう了見だろうな。 ええ? 徹男よおっ!」
「ご、ごめんひゃはい」
「そのうえ、そのピンチを救ってくれた恩人に対して、感謝をするならまだしも、こともあろうか出会いがしらのドロップキックとは、如何なものじゃないのか。ええ? 徹男よおっ!」
「ほ、ほんひょうに、ご、ごめんひゃはい」
昨日の大事件――僕と壇さんの熱烈なキス。
徹男はその事実をどこからか聞きつけたらしい。
そして嫉妬に狂った野郎は、登校中の壇さんを見つけるやいなや、
背後から彼女の後頭部に、強烈なドロップキックをさく裂させたそうだ。
現在、僕は自身の席に腰を下ろしながら、ここ2日間で腹の奥深くに溜りに溜まった怒りの数々を、黒柳徹男にぶちまけていた。
徹男はそれを先日と同じように、僕の太腿にちょこんと腰を下ろしながら聞いている。
だが一昨日とは大きく異なる点が一つあった。
それはヤツの鼻の穴には、僕のツーフィンガーが第一関節までめり込んでいる、ということだった。
「皆がお前のあられもない姿を見ているぞ。どうだ、恥ずかしいだろ?」
僕は教室の外からこちらの様子を窺っている、 ”徹男親衛隊” たちにニヒルな笑みを向けた。
「は、はひゅかしいれす」
「一体どこの恥かしい穴に、指を突っ込まれてるんだ? ほら、言ってみろよ」
僕はそう言うと、必殺のツーフィンガーをぐいっと持ち上げる。
すると徹男の可愛らしい鼻の穴が露わになった。
「ひゃ、ひゃめれー」
「このド変態っ、もういい加減にしなさいよっ!」
いささか暴走機関車ぎみの僕を壇さんが諌めてきた。
朝一番でドロップキックをかまされたにも関わらず、なんともお優しいことで……。
僕は彼女の手前、渋々といった表情を浮かべながら、諸悪の根源である徹男を開放した。
その後、暫くして担任の海老名みどりが出席簿を胸の前で抱えながら現れた。
そしていつものようにホームルームが始まる。
相変わらず徹男は当たり前のように、僕に抱きついたままだった。
野郎のこの奇行にも、クラスメイトたちはさして驚く様子はなくなっている。
そしてなにを隠そう、僕自身もその一人だった。
人間の慣れというものはかくも恐ろしいものである。
そんな中、僕は隣の席に座る美少女に小声で声をかけた。
「壇さん、なんでその席に座ってんの?」
「みどり先生に聞いてみたら ”別にいいよ” っていうから」
「答えになってないんだけど……」
「別にいいじゃん。そんなことより、その顔どうしたの?」
壇さんは僕の顔を覗き込こんできた。
途端にババアの右ストレートが、フラッシュバックしてくる。
いつか必ず背後から金属バットでぶん殴ってやる……。
「まあ、ちょっとね」
「あっ、もしかして私のファンクラブのヤツらが?」
「いやいや、それは違うよ」
「本当?」
「ああ、今のところはだねどね」
昨日のキスの一件以来、僕は当学園の全男子生徒から、殺気のこもった鋭い眼差しを浴びせられていた。
因みにいまの僕の肩書は学園のアイドル・壇美鈴の彼氏、という立ち位置になっている。
言うまでもないがこれはただのフリだ。
まあ、予想はしていたのでさして驚くこともない。
これではれて、僕は学園の殆どを敵に回したことになる。
いま思えば数日前の普通このうえなかった日々が、懐かしく思えてならない。
僕は未だ抱きついたままの諸悪の根源を静かに見下ろす。
するとそこには天使のような寝顔を浮かべる男の娘の姿があった。
「ヒーちゃん、むにゃむにゃ……愛してるよー」
「僕の制服に……ヨダレを垂らしてんじゃねえっ!」
4時限目の授業は数学の小テストだった。
ハッキリ言うと大の苦手科目である。
というよりも得意科目など最初っから存在しない。
自分の口から言うのもなんだが、僕はかなり頭が悪い。
誤解されては困るのだが、これは単純に勉強が苦手だという意味だ。
学校で習ってきた勉強が、社会に出て役に立つとは到底思えない。
学生時代にもっと学ぶべきことはたくさんあるはずだ。
因みにこれは勉強が出来ないヤツが必ず一度は言う、現実逃避の台詞である。
まあ、僕の場合は違うのだが……だいたい――。
僕がそんな自己弁護を繰り返しているさなか、
隣では苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる徹男の姿があった。
ヤツはパイプ椅子に腰を下ろし、先程から非難の眼差しを僕に向けている。
不機嫌な顔の理由は簡単だ。人間椅子に座れないからである。
先程、僕は徹男にとある提案を持ちかけた。
それは ”人間椅子、1日3時間までルール” というものである。
正直なところ一日中、人間椅子になっているというのは、 ヤツが幾ら小柄とはいえ肉体的に厳しいものがある。
そしてなにより無いに等しい僕のプライドが許さない。
当然ながら徹男はこの提案を断固拒否してきた。
だが僕が放った必殺の一言が、野郎の首を縦に振らせることとなる。
僕の一大事にそばにいなかったヤツが、
そんなわがままを言う資格があると思うか?
とまあ、このような経緯を経ていまに到るというわけだ。
「ヒーちゃん」
黙れ、いまはテスト中だ。
「ねえ、ヒーちゃん」
だからいまはテスト中だって言ってんだろっ。
「ねえ、ヒーちゃんってばあ」
ものすげえ、しつけえ……。
「ねえ、ヒーちゃんってばっ!」
「ヒーちゃん、ヒーちゃん、耳元でうるせえよっ! いまはテスト中だって――」
「うるせえのはお前だっ、佐藤っ!」
なんでこうなるんだ……。
悪いのはどう考えても、テスト中にしつこく話しかけてきた徹男のほうだろうが。
現在、僕は河合(数学教師)の一喝により恥ずかしながら、廊下に立たされていた。
これで両手に水の入ったバケツを持たされていたら、完全に一昔前の漫画である。
こっちはちゃんと授業料を払ってるんだぞ、これは明らかに不当な扱いだ。
河合の野郎……絶対にマスコミに訴えてやるっ!
結局、僕は授業が終了するまで廊下に立たされていた。
テストは全て解答済みだったので、その点に関してはさほど問題はない。
それにしても野郎はなんでテストの真っ只中に限って、
あんなにしつこく話しかけてきたんだ?
まあ、ヤツのことだからどうせくだらない用件だろう。
さてと、待ちに待った昼食のタイムだ。
つまらない学園生活の中で、唯一の楽しみといっても過言ではない。
僕・徹男・壇さんの3人は、机を繋ぎ合わせ昼食の準備を始める。
その様子はさながら仲良し3人組といった感じであった。
当然のことながらクラスメイトたちの鋭い視線が、僕の体中に突き刺さっていたのは言うまでもない。
とはいってもそんなことはもう慣れた。いまとなっては逆に心地いいくらいだ。
それにしても立ちっ放しだったせいか、いい感じに腹が減ったなあ……。
今日の弁当はかなり期待できると僕はふんでいた。
なぜなら昨夜の驚くべき勘違いにより、可愛い息子の顔に青痣を作ってしまったことを、愚母はかなり反省していた。
ゆえに今日は相当に気を使っているはずだからだ。
では――僕はそう呟きながら弁当箱を開けた……。
途端に自分の目を疑った。何故ならそこには一枚のメモ書きあるだけだったからだ。
”昨日は本当にごめんなさい。とても反省しています。
母より”
面と向かって言えないからって……。
ふん、ったく相変わらずシャイなんだから……。
僕は久しぶりに、清々しい微笑みを浮かべた。
「どうしたの? ニヤニヤして」
壇さんは小首を傾げながら、僕の顔を覗き込んできた。
「人っていうのはね、怒りが臨界点を超えると微笑みを浮かべるものなんだよ」
「へえ……それにしても個性的なお弁当ね」
「今日、恐らく僕は母を殺すと思うよ」
「ヒーちゃん、これあげる」
徹男はそう言って僕の空の弁当箱に、自分のおかずたちをどんどん詰めていく。
それはどれも美味しそうで、そしてとても高級感に溢れていた。
「いいのか?」
「うん。いいの、いいの」
「じゃあ、遠慮なく。いただきます」
うん? これはなんだろう……。
僕は見た目からは、全くなにか想像もできない物体を口に運んだ……。
な、なにこれ、すんげえ美味いっ!
「徹男、これなに?」
「フォアグラのソテー」
「えっ、フォアグラっ! ち、ちょっと、私にも一つちょうだい」
壇さんは僕の弁当箱から、フォアグラのソテーを一つ摘んだ。
そしてぱくっと頬張ると、至福の表情を浮かべた。
「味はどう?」
「美味しい……私、初めて食べた」
「徹男、お前いつもこんな高級なもの食べてんの?」
「うん、そうだよ」
「家でも?」
「うん」
「こんなカロリーも値段もお高いもんばっかり食べてたら、そのうち痛風になるぞ。ったく金持ちのやることは……良いか? 徹男、僕は別に僻んでるわけじゃないんだぞ。でもなあ、毎日毎日こんな贅沢を――」
「ヒーちゃん、今日お家に遊びに来る?」
「行く」
僕は間髪入れずに答えた。考えるまでもない。
こんなナイスなお誘いを断るのは馬鹿のすることだ。
「徹ちゃん、私もいい?」
「うん。美鈴ちゃんなら大歓迎だよ」
「食べ物で釣られたな」
「ふん、そっちこそ」
こうして僕らは食べ物の誘惑に釣られ、放課後は黒柳家の家庭訪問とあいなった。
そうと決まればこうしてはいられない。
僕は昼食の手を一端休めると、ジャケットからスマホを取り出した。
そして愚母と表示された液晶画面をタップする。
程なくしてヤツが電話に出た。
「ババア、今日の夕飯はいらねえ。それと弁当の件だが帰ったら、きっちり落とし前をつけさせてもらうから覚悟しとけ。それと当然自覚しているとは思うが、貴様は人としても母親としても失格だ。風邪ひけ、そして死ねっ!」
僕は一気にまくし立てると、愚母の言葉を待たずに通話を終了した。
その後、当然のことながらババアからの着信は120件を超えた。
面倒なので全て着信拒否に設定していたのは言うまでもない。
「お母さんになんてこというのよっ!」
壇さんが非難の眼差しを向けてきた。
キミは愚母を知らないから、そんなことが言えるのだ。
これでも僕はヤツに優しくしているほうなんだよ。
普通ならとっくの昔に、バット殺人が起こっているはずだ。
僕は心の中で反論すると、止まっていた昼食を再開した。
すると不意に頭の隅にあった疑問が蘇ってきた。
「あっ、そういえばテスト中なんか用でもあったのか?」
「うん」
「どんな用件だ?」
「ヒーちゃんの回答、一つずつズレてたから教えてあげようと思ったの」
「……ズレてた?」
「うん」
「回答が?」
「うん」
「……ってことは僕は0点か?」
「うん」
「徹男……そういう大切なことは今度からちゃんと伝えてね」
「うん、分ったっ!」
本日の教訓――。
人の話はちゃんと聞きましょう。それでは、おあとがよろしいようで。