第1部 Chapter 2 <5>
星矢と女は夜の静けさの中を歩いた。
女は小柄な星矢より頭一つ分背が高く、やせて華奢な、まだ子供の体型が残っている星矢より肩幅も少し広かった。
年の近い親子にしては無理があるから、年の離れた姉弟というところだろうか。
ジョギングやコンビニ帰りか、こんな深夜でも時々すれ違う人たちがちょっとびっくりしたように二人を見つめていった。
ちゃんと他の人にも見えているようだ。
幽霊なんかじゃない。
星矢の隣を歩いているのは、確かに本当の生きた人間だ。
このままどこかに連れて行かれてしまうのかもしれない、と内心びくびくしながら無言で歩く星矢に、女は親しげなほほえみを投げかけてきた。
「ねえ、せっかくこうして話が出来るんだから、いろいろ話そうよ。」
「え、話って言ったって、何も思い浮かばないし。」
星矢が困っていると、女は空を見上げて、
「このあいだ、なんか髪を結ぶものない?って聞いたの、覚えてる?
ベランダから出るとき、長い髪がじゃまなのよね。
今日は玄関から出たからいいけどさ。」
と言った。
星矢は上の空で聞いている。
女はつまらなそうにため息をついて、話し続ける。
「きのうは私もさばの塩焼き食べたかったなあ。
肉じゃがもおいしそうだった。
ねえ、できたらごはんにかつお節か何か、かけてほしいなあ。
お母さんはかけてくれるよ。
いつも同じドライフードだけじゃ飽きちゃうから。」
星矢はまじまじと女を見た。
なぜこの女は、うちの昨夜の夕飯のメニューを知っているんだ。
「あ、でも、あんたが言うみたいに、いつも食いもんのことばっかり考えてるわけじゃないわよ。」
女はあわててそう言った。
そして街灯が明るいところで不意に立ち止まり、
「そろそろ、信じてくんない、私が琥珀だって。」
と言って、星矢の顔をのぞき込んだ。
星矢は、初めて正面から間近に女の顔を見た。
そしてよく見るとその瞳が、見覚えのある金茶色に光っているのに気がついた。
髪も枯葉のようにくすんだ茶色で、琥珀の毛にそっくりだ。
そう思うと、何となく顔立ちも似ているような気がしなくもない。
長いまつげ、すっと通った鼻筋。
いや、だけど、犬が人間になるなんて。
星矢は女の言うことを信じそうになるのをあわてて否定した。
ほどなく着いた夕日の丘のなだらかな勾配は、だいぶ丈の伸びた緑の草で被われており、
町の灯りで星はあまり見えなかったが、さえぎる物のない広い夜空に満月はよく見えた。
丘の斜面に面した、見晴らしの良い木製のベンチに二人は座った。
「きれいね。月も、街の灯りも。」
女はベンチに両手をついて、小さい女の子のように両足をぶらぶらさせた。
「そ、そうですね。」
星矢がうつむいたままぎこちなくつぶやくと、女はもてあましたようにため息をついた。
「星矢ったら、私が人間の姿だと、全然態度が違うのね。」
「だって、これは夢だから。絶対、夢でしょう。
あり得ないでしょう。あなたが琥珀だなんて。」
星矢はさっきから、頭の中でずっとつぶやいていた言葉を口にした。
「だから言ったじゃない、満月の夜だけだって。」
そして、女は語り始めた。




