第1部 Chapter 2 <4>
七月に入ると期末試験前で週末の部活が休みになった。
学校も休みの土曜日、久しぶりにのんびり過ごした星矢はたっぷり昼寝をして、夜遅くなってもすっかり目がさえていた。
直子と稔は先に寝てしまっていた。
星矢は勉強する気にもなれず、録画したアクション映画を見ながらリビングで一人くつろいでいた。
二階でどすん、と何かが落ちるような音がした。
琥珀が何かしたのだろうか。
気になって星矢は階段を上り、自分の部屋のドアを開けた。
「こんばんは。」
電気を消した薄暗い部屋の中に、まるで風呂から出たばかりのように、星矢の布団代わりのタオルケットを身体に巻いた長い髪の女が立っていた。
「だ、誰なんです、あ、あなたは。」
しどろもどろでうまくろれつが回らない星矢に、落ち着き払って女は言った。
「私よ。こ、は、く。」
「こ、こはく?」
星矢はあわてて周りを見回した。
夕方、部屋に上がっていったはずの琥珀が見あたらない。
「私、満月の夜は人間の姿になるのよね。」
女はけだるそうにそう言って、ゆっくりとベッドに腰掛けた。
タオルケットを膝までめくって組んだ足をさすった。
足首は細く、すっと伸びたすねは白い。
足の指はまっすぐで長く、ゆっくりくねくねと動いていた。
星矢の頭の中でめまぐるしく思考が駆けめぐった。
いつの間に眠ってしまったんだろう。
たぶん、今はリビングのソファにいるはずだ。
ということは、ここは夢の中なのだ。
いや、とても夢とは思えない。じゃあ現実だろうか。
「つまり、あなたは、うちの犬の琥珀だっていうんですか。」
星矢は女の足から目を離せずに見つめながら尋ねた。
「そうよ。さすがいい子ちゃんの星矢ね。落ち着いていて冷静で。
大声で騒いだりなんて、しないわよね。素直な子で良かったわ。
さ、行きましょ。」
そう言って女は立ち上がった。
タオルケットがはらりと落ちると、そこに一糸まとわぬ裸体があった。
「え、服は、服は着ていないんですか。どうして。」
星矢は目のやり場に困ってうつむいた。
前にも何度か見たような気がする。
そして、あの柔らかい唇の感触がまざまざとよみがえって、星矢は顔がほてってくるのを感じた。
「いつも星矢の服借りてるけど、たまにはお母さんのがいいなあ。
洗濯物のかごから持ってきてよ。」
「あ、はい、わかりました!」
星矢は言われるままに階下の脱衣かごから直子のジーンズと黒と白のボーダー柄のTシャツを持ち出し、
自分の部屋に戻って裸の女におっかなびっくり手渡した。
「はい、ちゃんと服着たよ。」
そう言われて振り返ると、ちょっと照れくさそうな笑顔を浮かべた女が星矢の前にいた。
「さあ、出かけましょう。」
女は星矢の手をつかんで、音を立てないようにそっと足音を忍ばせて階段を下りた。
そして玄関で直子の靴を履き、鍵を開けチェーンを外して外に出た。
雲がすっかり晴れて、満月がくっきりと見える。
星矢は改めて、女の姿をまじまじと見つめた。
ゆるいウェーブがかかった、腰までの長い髪。
背は星矢とあまり変わらない。
細くしまった身体はところどころふっくらしていて、星矢よりはかなり年上に見える。
うふふ、と嬉しそうに女は笑って、そっと星矢と手をつないだ。
柔らかくて暖かい、星矢と同じぐらいの大きさの、でも指は星矢よりほんの少し長い大人の女の手。
親以外の誰かと手をつなぐなんて、小学校の低学年以来だ。
「あの、ちょっと聞いてもいいですか。」
星矢がおそるおそるつぶやくと、
「どうぞ、何でも聞いて。」
と、女は優しくささやいた。
「こ、これからどこに・・・。」
「川が見える、夕日がきれいな丘があるでしょう。
あそこ、お散歩コースで一番好きなの。
きっと星も月も、よく見えると思うわ。」
女の頭が星矢のうなじにもたれかかってきた。
星矢のよれよれのTシャツのあらわな首筋に、女の柔らかな髪の感触がダイレクトに伝わってくる。
星矢は、自分の手のひらが汗ばんでくるのがわかった。