第1部 Chapter 2 <2>
玄関のドアを開けると、しっぽをぶんぶん振り回しながら琥珀が飛びついてきた。
散歩を待ちかねているようだ。
直子はまだ帰ってきていないらしい。
「しょうがねえなあ。疲れてるからざっとだぞ。」
玄関の内側のフックにかけた琥珀のハーネスとリードをはずす。
琥珀にハーネスを向けると、自分から首を入れてきた。
星矢はスクールバッグを玄関に置いて、制服も着替えず再び家を出て公園へ向かった。
六月に入り、ずいぶん日は長くなったが、午後六時半を過ぎると外はだいぶ薄暗くなっていた。
街灯も点き始めていた。
琥珀は、星矢の少し先を弾むように歩く。
疲れと空腹でぼうっとしながら、星矢はふらふらと遊歩道を琥珀と歩いた。
中学生になって、こんなに時間があっという間に過ぎるとは思っていなかった。
時間が早く過ぎれば過ぎるほど、頭の中は窮屈になり、たいしたことを考えなくなってきている気がする。
だから、こんなふうに何も考えず琥珀と散歩しているとふだん考えないいろいろなことが頭に浮かぶ。
空を見上げると、雲間からちらほら星が見えていた。
星矢の名前は、夏になると毎年やってくる、ペルセウス座の流星群の時期に生まれたからだと両親から聞かされている。
「結婚する前に、一度だけお父さんと見に行ったの。
流れ星なんて滅多に見たことがなかったから、次々流れてきて本当にびっくりした。
最初UFOかと思ったぐらい。」
直子は時々思い出しては同じことを繰り返し言う。
たった一度だけと言うのだから、二人ともそれほど星が好きなわけではなさそうだ。
それでも八月に生まれた我が子に迷わずその名を付けたぐらいだから、きっと二人にとっていい思い出だったのだろう。
そういえば琥珀は何月生まれなのだろう。
大人になってから保護された犬なので確かめようがない。
一応直子の提案で、家にやってきた四月四日が誕生日ということになっていた。
(琥珀の誕生日にはビーフジャーキーでもプレゼントしてやるか・・・。)
星矢は足元を軽快に歩く琥珀を見下ろした。
柴犬などに比べて足が長く、顔も細長い。
洋犬は混じっていないようだが、秋田犬や土佐犬とも違う。
いったい、どんな犬種が混じっているのだろう。
足がすらりと長く、鼻先は細長く伸び、牙は鋭くとがっていて、ふさふさしたしっぽは垂れるでも巻くでもなく、狐のように歩くたびに宙を揺れている。
散歩で会う人から、かっこいい犬だとよくほめられる。
犬種は何ですか、と聞かれて譲渡会でもらってきた雑種です、と言うとびっくりされる。
体重が一五キロあるから、ひょっとして大型犬にはいるかもしれない。
こうして、疲れていても散歩に連れ出す気になるのは、琥珀がちっとも手がかからない犬だからでもある。
いい子ついでに、自分で散歩に行って帰ってくればいいのに、と思うが、犬の放し飼いは禁止である。
家に来てもう二ヶ月たつし、脱走しても戻って来るだろうが、車が多いので事故にあっては大変だ。
糞も持ち帰らなくてはいけない。
公園のはずれの長い階段を上りきったところに、「夕日の丘」という小高い丘があった。
なだらかな斜面のずっと下に川が流れていて、その前後にたくさんの住宅やビルが建ち並んでいた。
市内が一望できるその場所は、引っ越してきて以来星矢の一番好きな場所だった。
もう少し早い時間なら、夕日がきれいに町全体を照らしている。
遠くの山並みに日が落ちるまで、さえぎる物が何もなかった。
山並みのさらに向こうには、天気が良ければ富士山もくっきり見える。
川の左手のずっと奥に、以前住んでいた町も見える。
背の高い煉瓦色の給水塔が目印だ。
こうして見ると、懐かしい町や友達とそれほど離れていないことがよくわかる。
中学はみんなと違ってしまったが、たまに駅前や街道沿いのホームセンターでばったり会うこともあった。
琥珀は元気にいくらでも歩くので、散歩に出ると気がつくと一時間ぐらいはたっている。
その日も家に戻ったのは七時半過ぎだった。
少し先に帰ってきた直子が夕食の支度をしていた。
「散歩、行ってくれてたのね、ありがとう。」
「腹減った、晩ごはん何?」
「今日は遅くなっちゃったから、スーパーでトンカツ買って来ちゃった。」
よっしゃ。お母さんの手作りの煮物や焼き魚より、そっちの方がありがたい。
星矢は、ドッグフードの入った大きな瓶を開けて、皿に盛ってやった。
琥珀はソファの横できちんとおすわりをして待っていた。
「おまえは行儀がいいなあ。」
星矢は琥珀の首元をなでてやった。
首の回りの毛は、他の部分より少し毛足が長い。
夏は暑そうだ。
琥珀は、星矢がよし、と言って器を前に出すまで、大人しくじっとしていることも、家に来てすぐに覚えた。
えさを食べ始めた琥珀をソファで横になりながら見つめている内に、星矢はうとうとし始め、そのまますとんと寝入ってしまった。




