第2部 Chapter6 <2>
ガードレールにつっこんできたワゴン車が、仕事中に歩道を歩いていた父の命を奪った。
運転していたのは、二十代の会社員。カーナビのワンセグでバラエティ番組を見ていた。
「お父さんの仇を取りに行こう。」
満月の夜を待ちかねて、琥珀は真剣にそう言った。
「私がそいつをかみ殺してやる。」
「そんなことできやしないよ。」
そう言う星矢に、大まじめに琥珀は言った。
「出来るわよ。私が本気を出せば、ひと噛みで殺せる。」
「そんなことしたら、琥珀が殺されるだろ。」
「なんで?相手に反撃の隙なんて与えないから大丈夫。」
そうじゃなくて、人を殺した犬がどうなるかってことだよ。
そう言おうとして星矢はやめた。人間社会のことは琥珀にはとうていわからない。
「信じられない、群れのボスを殺されて、仇を取らないなんて。」
琥珀が憤慨するのを見ていると、星矢のやり場のない怒りが少しだけ収まった。
琥珀を守らなくては。そう思うことで、理不尽な父の死を耐えられた。
「そうか、人間は群れの上にもっと大きな群れがあって、そのボスがちゃんとそいつを片づけてくれるんだね。」
何とか琥珀を納得させるような説明をしながら、本当にそうだったらいいのに、と星矢は思った。
運転していた男が今どうしているか、星矢は知らない。
(きっと、人一人殺したことなんか忘れて、善良な一市民になっているさ。)
押し殺していた殺意がよみがえる。
琥珀があんなに真剣にならなければ、星矢自身がその男を捜し出して、どうにかしてやろうと思っていたはずだ。
岬のどことなくよそよそしい笑顔が浮かぶ。
一人で何をがんばっているのだろう。
琥珀の死にめげているこんな自分は頼りないと思われても仕方がない。
通夜の時の、冷たい叔父の言葉。何かトラブルが起きているのかもしれない。
自然保護も法律も全くわからない自分が、これからどれだけ岬の支えになれるだろう。
ホスピス病棟を紹介して、岬の親戚達に婚約者を演じたところで、自分の役目は終わったのではないか。
(俺がいなくたって岬はやっていけるのかもしれない、他の誰かを見つけて。)
琥珀の死を岬に知らせて以来、薫もプライベートではいっさい連絡してこない。
仕事のつきあいだけに徹して一線を引いてきた。それも仕方がないのかもしれない。
(岬とつき合い出してから、少しずつ離れていった。薫さんにとっては、やっぱり俺は裏切り者なんだろうか。)
自分もずるい、と思う。ずっと薫の気持ちを知っていて、利用した。
薫の優しさの裏にある期待を、ちゃんとわかっていたくせに。
冷めた思いが次々と浮かんで、星矢をどこか違う世界へ連れて行こうとしていた。
(仕事だって、成り行きで選んだだけだ。)
高校の時、ボランティアの単位があって、たまたま老人ホームを訪れた。
そこで職員や入所者の人たちに暖かく歓迎されて、ちょっといいなと思った。
医療と福祉の資格があれば、とりあえず食いっぱぐれがないとも思った。
増田に初めの頃言われたことは、ある意味的を射ていた。
病院の患者や、老人保健施設やホームの入所者を見ながら、やるせない思いはいつも感じていた。
誰でもいつかは歳を取る。心身の衰えを止めることは出来ない。
病気や怪我で身体が不自由になったりまともにものが考えられなくなったりして、世間からリタイアし、家族や他人の世話になって、やがて命を終えていく。
両親が健在だったらそんなことは考えず、もっと気楽に仕事と割り切っていられたかもしれない。
だが、毎日家に帰って仏壇を見ると、いやでも人の生死を考えてしまっていた。
人の一生なんてたかがしれている。
生きている時間のほとんどを食べるために働いて、居心地のいい場所や気を紛らわす楽しみを見つけて、そこそこの生活をするだけだ。
(・・・琥珀だって。)
力強く敏捷な身体は、いつの間にか頼りなくよたよたしてきた。
なめらかな毛並みも薄くなり、白髪が交じって貧相になってきた。
歯が少しずつ抜けて、堅いものが食べられなくなり、目も濁ってきて、遠くのものが見えなくなった。
あの、豊かな長い黒髪も、柔らかな腕も、星矢を魅了したしなやかな身体も、人間より遙かに速い年月で衰えて色あせて。
それを見るのが本当は辛かった。
仕方がないさ、とわかった振りをしていたけれど、目をそらして、気にしないようにしていただけかもしれない。
星矢は今まで、琥珀という魔法にかかって生きてきた。
その魔法が解けた今、世界の全てが色あせてしまった。
これほどの孤独を、今まで味わったことがなかった。
膝を抱えて丸くなっていると、このまま消えていくような気がした。それもいいかもしれないと思う。
頭の上でどうっと風が鳴り、辺りの枯れ草がしゃらしゃらと音を立てた。
ダウンジャケットにもプツプツと小さくはじけるような音がする。
頬に冷たいものが当たった。小雪がちらつき始めたようだ。
闇の中にいると、耳と皮膚の感覚が全てになる。
それもだんだん鈍くなってきた。
星矢は凍てつく寒さの中でいつの間にかうとうとしていた。




