第2部 Chapter6 <1>
よく晴れた朝だったが、登山口の駐車場に人影はなかった。
登山道の入り口には「三月下旬まで閉鎖中」と看板が立っていた。
ロープウェイも平日は閉鎖されている。
仕方がないので登山道の鎖をくぐって、星矢は山へ向かう木立の間の道へ足を踏み出した。
冬登山は経験がないが、登山道はしっかり整備されており、頂上の神社まで細いが車道も通っているから、人もいるはずだ。
リュックには上着の予備と食料や水、そして琥珀の遺骨を納めた箱が入っていた。
踏みしめる登山道のあちこちに、うっすらと雪が積もっていた。
木々はすっかり葉を落として、幹の間から車道や遠くの家並みが見える。
沢は表面が凍っていた。あの夏の終わりの日のようなにぎわいは全くなかった。
聞こえるのは自分の足音と、時折梢を渡る鋭い野鳥のさえずりだけだ。
時折、梢のどこかでキツツキが軽快なリズムを響かせていた。
沢を越えて森に入るあたりで、道が二手に分かれていた。
朽ちかけた手書きの木の道標は、少しいびつな格好で曲がっていた。
神社を指す道は、険しい登りになっていた。
岩や木の枝を伝いながらしばらく行くと、なだらかな斜面に出た。
道はそこでさらに二手に分かれていて、そこには道標はなかった。
頂上が神社なのだから、登りだろうとふんで、日当たりのいい登りの斜面を選んだ。
途中で軽く休憩して昼食を食べていると、にわかに空が曇ってきた。
天気予報では午後から曇り、山沿いでは雪となっていたので、なるべく早く頂上に行って、神社を参拝してから場所を選んで琥珀の骨を埋めるつもりだった。
だが、時計が二時を回っても一向に神社の鳥居も参道の長い階段も見えてこなかった。
おかしい、道を間違えたかもしれない、と気づいたのは、突然道が行き止まりになり、その先がうっそうとした森になっていたときだった。
引き返し始めると、一本道を歩いてきたつもりだったのにあちこちに分かれ道がある。
だんだん、星矢は焦ってきた。日のある内に、せめて車道に出なければ。
雲はすっかり空を覆い、薄暗くなってきた。冬至
はとっくに過ぎていたが、日の入りはまだ早い時刻だ。
星矢は後悔し始めていた。
春になってからにすれば良かったのに、思い立ったらどうしても出来るだけ早くここに来たくなった。
琥珀を失った気持ちのけりをつけるのに焦っていたかもしれない。
岬のことも気になる。何かしないと、まとわりつく空虚感に耐えられない思いだった。
山道をひたすら下る。
時々登りになる。道が途絶えると、後戻りした。
だいぶ薄暗くなったころ、ようやく立て看板を見つけて駆け寄った。
目を凝らして手書きの地図を見て、星矢は呆然とした。朝からさんざん歩いて、全く違う山に入り込んでいた。
朝、後にした登山道の入り口は、尾根を三つ越えたところだ。
参ったなと舌打ちをして、地図をしっかり頭に入れる。
念のためスマートフォンで地図の画像を撮った。
そうしている内に、足元が暗くなった。
闇は少しずつ濃くなり、星矢は地図の画像を頼りに道を急いだ。ひょっとしたら一晩中かかるかもしれない。
琥珀の骨のことが頭をよぎったが、今は駐車場に戻るのが先決だ。
日暮れと共に、寒さがぐんぐん増してきた。
動いていても、足先から凍てつくような寒さが上ってくる。
都心からそれほど遠くないとはいえ、山は山だ。
人一人簡単に飲み込んでしまえるぐらいに広く険しい。
星矢は懐中電灯を持ってこなかったことを後悔した。
電力の消費が気になったが、足元をスマートフォンのライトで照らしながら歩いた。
もう一度地図を確認しようと画像を開いたとき、ブーンと小さい音がして電源が消えた。低温で急速放電してしまったようだ。
あたりは真の闇に包まれた。星はおろか、月の光さえ差してこない。
星矢は狼狽した。
都会育ちの星矢は、本当の闇を知らなかった。
自分の手足さえ見えない闇の中に一人でいるのは生まれて初めてだった。
これでは一歩も動けない。
しばらくして目が慣れると、わずかにうっすら辺りの輪郭が見えてきた。
だが、一歩踏み出すと木の根に躓いてよろけた。
頬を堅い木の幹がこすった。どこに何があるのか、ほとんどわからない。
少し落ち着こう、と星矢は息を大きく吐いて、その場に座り込んだ。
スマートフォンを上着の中に入れ、復旧を試みる。
闇の中にいると、時間の感覚もなくなってくる。
自分の胸の鼓動だけが、時を計る術だ。数分おきに電源を入れてみたが、画面が再び明るくなることはなかった。
明日の朝までこうしていようかと思い、手探りで平らなところに腰を下ろした。
だが、ものの数分であまりの寒さに星矢はじっとしているのに耐えられなくなってきた。
予備の上着を重ね、襟をぴっちり上げ、帽子もしっかりかぶり直してわずかな隙間も出来るだけふさぐ。
だが、町中とは比べものにならない刺すような冷気が星矢の体温を奪っていく。
じわじわと恐怖がはい上がってきた。自分の浅はかさが情けなかった。
どうしてこんな時期に来てしまったのだろう。
閉鎖中の登山道に、どうして足を踏み入れてしまったんだろう。
さっきから何度も同じことを考えてしまう。
時折上空を笛のように風が鳴る。
消防車や救急車のサイレンの音に似ている。
脳裏を暗い思い出がよぎった。




