第1部 Chapter 2 <1>
新しい家は、三十年以上前からある住宅地の一角にあり、もとは別の家が建っていたらしい。
今までいた団地は鉄筋コンクリートだったので、密閉度が高く外の音もほとんど聞こえなかったが、木造の一戸建ては新築と言っても床や階段がきしんだり、隣家の物音もよく聞こえた。
生まれてからずっと団地住まいだった星矢はそういう環境が初めてで、何かの拍子に誰もいないところで物音がしたり気配を感じたりすることがあって、気味悪がった。
「住むところが変わると、慣れない音や気配がするから、何となく錯覚するものさ。」
と現実的な稔は言ったが、直子はさりげなく近所の人に以前建っていたのはどんな家で、どんな人が住んでいたかなどを聞きだした。
それによると、以前はずっと借家だったので何回か住人は変わったが、特に変な話は聞いていないということだった。
それで安心し、さらに琥珀が来たので何かあったら吠えて追い払ってくれるだろう、と神頼み的な期待もしていた星矢だった。
五月の連休のある夜、星矢は夜中にふと目を覚ました。
雨戸を閉めていないのでうっすら明るい室内に、誰かがいる気配がした。
最初は琥珀だろう、と気にしなかったが、何度か目をしばたたいて視界がはっきりしてきたとき、星矢はぎょっとして息をのんだ。
誰かがいる。部屋の中をうろうろしながら、引き出しを空けたり閉めたり、何か探しているようだ。
あまり驚くと声も出ない。
いや、これが金縛りというものかもしれない。
体が固く石のようにこわばって、小指一本動かせない。
やがて、人影は星矢の視線に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。
見たくない!星矢は思ったが、目を閉じることも出来なかった。
月明かりにぼんやり浮かび上がったのは、長い髪の女だった。
星矢は凍り付いた。
女はじっと星矢を見据え、ズズッと何かを引きずる音をさせながら、ゆっくり近づいてくる。
女は全身にシーツのような白っぽい布をまとっていた。
やがて女はベッドの前にしゃがみ、身動きも出来ずにいる星矢の顔をのぞき込んで低い声で一言つぶやいた。
「なにかかみをむすぶもの、ない?」
(ふわああああ!)
実際に叫んだのか、心の中で叫んだのか、わからなかった。
そして、そのまま星矢の意識は遠のいた。
翌朝、勢い込んで昨夜の出来事を両親に話すと、稔は「嘘だろ。気のせいだ。」と鼻で笑って取り合ってくれず、
直子は「へええ。」とおもしろそうに目を輝かせたが、どうも信じている様子はなかった。
「五月病じゃないの。あんたは、家族の中で一番環境が変わったし。
ちゃんと睡眠と栄養取ってる?」
と直子は言い、ちゃんと朝ご飯食べて学校行きなさい、と念を押して琥珀の散歩に出て行った。
確かに悪い夢だったのかもしれない、いやきっとそうだろう、と星矢は頭を振りながら考えた。
連休が開けて間もなく初めての定期試験があり、それが終わると体育祭があった。
そしてその頃から、六月の新人戦に向けてサッカー部の一年生は本格的な練習に入っていた。
星矢は特にそれまで地域のクラブチームにも入っていなかったので、当然レギュラーにはなれないとたかをくくっていたが、今年は新入部員が少なく頭数をそろえるために全員試合に出なければならなかった。
それまでの半分見習いのような気楽さが一気に消え、毎日くたくたになるまでボランティアで来てくれる大学生のコーチにしぼられていた。
直子は、常勤のパートタイムから正規雇用になり、夜勤は週二日になっていた。
「やっぱりパートと正社員は違うわ。気軽にノーと言えないのが辛い。」
疲れ切った顔でつぶやく母に気を遣って、星矢はこのごろ琥珀の散歩もえさやりも頼まれるとあっさり引き受けてしまう。
学校でも家でもついいい顔をしてしまうのは、争いごとが苦手で自己主張をする気の強さがないからなのが、自分でもよくわかっている。
そんな星矢をすっかり当てにして、最近直子は夕方の散歩にわざと星矢の中学校のそばでうろうろし、部活帰りの星矢を捕まえると、にっこり笑って琥珀のリードを渡してくるようになった。
「はい。バトンタッチ!」
そして星矢のスクールバッグを代わりに受け取ると、
「じゃあ、よろしくね。お母さん晩ご飯の支度があるから。」
と言ってさっさと帰ってしまうのだった。
星矢は琥珀より直子が待ちかまえているのがうっとうしくてたまらなかった。
友達の目もある。
だが、友達もすぐに事情をのみこんでくれて、おおでっけえ犬だなあ、などと言って一緒に散歩につき合ってくれることもあった。