第2部 Chapter5 <3>
薫が去って、星矢はようやく自分の身体がすっかり冷えてこわばっていることに気が付いた。
熱いシャワーを浴びていると、少しずつ人心地がついてきた。
ひげが少し伸びているところを見ると、本当に一昼夜が過ぎていたらしかった。
ぼんやりした頭の中で、ばかみたいに琥珀が生き返るのを待ち続けていたのを思い出す。
満月の夜に人間になるぐらいだ、生き返るなんて朝飯前だろう。
そんな風に思っていた自分は、どこかおかしくなっていたのかもしれない。
薫がいなかったら、自分はあとどのぐらい琥珀の抜け殻と時を過ごしていただろう。
着替えて脱衣所のドアを開けると、玄関に息を弾ませた岬が立っていた。
仕事帰りなのだろう、コートの下にはユニフォームの水色のポロシャツを着たままだった。
「琥珀さん、亡くなったのね。」
「どうしてわかったの?」
星矢は岬に何も知らせていなかったことを思い出して戸惑った。
「薫さんが、さっき連絡くれたの。」
岬はそう言って目を伏せた。
「何も知らなくて、ごめんなさい。」
家に上がった岬はリビングへ行くと、黙って琥珀の介護に使っていた物を片づけ始めた。
今の星矢には、その沈黙がありがたかった。
じきにリビングから琥珀の最期を看取った痕跡は消えた。
それから岬はキッチンに立ち、冷蔵庫の残り野菜と缶詰でスープを作った。
暖かい湯気が漂い、鍋がコトコト煮える小さい音が少しずつ星矢の心を和ませた。
「私ね。」
温かいスープを二人で飲みながら、岬は語った。
「初めてここに来た日に、星矢君が玄関でただいまって言ったとき、しまった!って思ったの。星矢君はもう一緒に暮らしている彼女がいて、私はずうずうしくそこにおじゃましようとしているんだって。」
星矢の顔にわずかに微笑みが浮かんだ。
「そりゃ、びっくりしただろ。」
うん、と岬はうなづいた。
「そしたら、リビングで琥珀さんと目があった。私、その時、やっぱり星矢君が思ったとおりの・・・いえ、思っていた以上の人だって確信した。」
「どうして?」
「琥珀さんがじっと私を見つめる目は、とても穏やかで落ち着いていて、包み込むようだった。ああ、このひとはとても大切に尊重されているんだなって思ったの。あんなに気高い動物の目を見たことがなかった。単にかわいがるとか、何かに使うために飼われているんじゃなくて、大切な仲間として暮らしていることがよくわかった。だから、星矢君がとても誠実で、偏見とか優劣とか、そういうことにとらわれない人なんだってわかったの。」
岬は自分を買いかぶっている、と星矢は思う。
星矢の価値観の大半は、琥珀に培われたものだった。
琥珀がいたから今の自分がある。そしてそのことは、星矢以外誰も知らない。
「星矢君にはずいぶん助けてもらったのに、仕事やいろんなことで頭がいっぱいで、自分のことばっかりで。しばらく休みを取ったって聞いて、星矢君がいるから琥珀さんは大丈夫って思ってた。」
「そういえば、実家の方はどうだったの?」
気がついて尋ねる星矢に、岬はにっこりほほえんだ。
「ちょっとばたばたしているけど、大丈夫。今は星矢君、一人でゆっくりしなきゃ。」
一人で?
岬に急に距離を置かれたようで、星矢は戸惑いを覚えた。
岬のことはずっと気になってはいたが、琥珀のことで精一杯でちっとも気遣ってやれなかった。
だが、星矢がいろいろ聞いても、大丈夫、何でもない、と笑って、岬は何も話そうとしなかった。
そして星矢も今はまだ心から岬のことに関心を向けることが出来なかった。
翌日、星矢は職場に戻った。
上司に様子を聞かれて、祖母は亡くなりました、と告げた。
特に努力しなくても、淡々と日常をこなすことが出来た。
同僚や患者達と軽口を叩いて笑うことも出来る。仕事は、ちゃんと考えて処理できる。
ただ、どこかに自分の半分を置いてきてしまったような空虚さは感じていた。
家に帰って琥珀の骨の入った小さな白い包みを見ても、悲しみはわいてこなかった。
だが、しんとした家の中に一人でいると、日中職場で他人と接しているときとはまた違った深い暗闇がすぐ近くにあるような気がして、星矢はたじろいだ。
何かの拍子に、無意識に琥珀を探してしまう。
そして嫌というほど気づく。琥珀がいない。琥珀はもういない。
何事もなく日々は過ぎていった。
岬から、あれっきり連絡はなかった。
薫もあれから抜き打ちで星矢の家を訪れることはなくなった。
星矢も自分から岬や薫にメールや電話をしようという気になれなかった。




