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第2部 Chapter4 <3>

 市といっても、いくつかの町が合併して出来たばかりの新しい行政区域で、岬の実家のあたりにはまだ古い時代の名残がそこここに残っていた。

 岬の実家の建物も何度かリフォームはしたが、築百年は軽く越えている今では珍しい茅葺き屋根の古民家だ。

 土間と囲炉裏も使ってはいないが残っている。天井を見上げると黒光りする太い梁が何本も渡っていて、枯れ草といぶされた古木の香りがかすかに漂う。

 家の裏には井戸もあった。さびついたポンプは今も動くだろうか。

 使っていない部屋には骨董好きの人が喜びそうな、古い農具や火鉢などもいろいろ残っているはずだ。

 帰ってきたのは母の転院以来だった。

 鍵を開け、玄関の引き戸をがらがらあけると、今は玄関になっている土間の向こうの座敷のふすまが開いている。

 おかしいなと思う。あのふすまはいつもきちんと閉めているはずなのに。

 家の中に足を踏み入れて、岬は唖然とした。

 いろいろなものが少しずつなくなっていた。

 床の間の掛け軸、違い棚の上にあった祖母のお気に入りの赤銅の壺。

 引き出しもあちこち開けた形跡があった。

 窓は破られていないし、鍵がかかっていたので、叔父達に違いなかった。

 岬は身震いをした。すぐにバッグからスマートフォンを取り出す。

 星矢に発信しようとして、岬は指を止めた。

 年老いた琥珀、最後の家族を失おうとしている星矢。

(今はだめ。)

 通夜の席では、もうすっかり終わったと思っていた。

 これから安心して、星矢と時を重ねていけると思っていた。きっと星矢もそう思っているだろう。

 岬は改めて、百十番に通報した。身内のことで警察が動いてくれるかわからなかったが、とりあえず被害届だけでも出しておこう。それから、鍵を取り替えなくちゃ。

(こんな名前のおかげで、どれだけ荒波に立ち向かわなきゃいけないのかしら。)

 わざわざスーツケースに入れて持ってきた母の遺骨をにらんで、岬は肩をすくめた。がんばって、ありったけの元気と勇気を出さなければ。

 星矢に初めて泣きついたときは一人ではもう無理と思っていたが、今、星矢と琥珀に残された大切な時間をこの嵐から守りたいと思うと、不思議と力が沸いてくる。

 警察が来て一通り調べてもらったが、やはりまず身内に確認しろと言われてしまった。

 仕方がないので、鍵屋が来る間に家の中を片づけ始めた。

 夕方ようやく鍵を取り替えてもらうと、すぐにとっぷりと日が暮れた。

 幼い頃から過ごした実家だが、たった一人でいると心細さが身にしみた。

 岬は古いCDラジカセを探し出して、好きな音楽のCDをエンドレスでかけながら布団に入って灯りを消した。

 ここに星矢と琥珀がいたらどんなにいいだろう、と思うと寂しくて涙が出た。

 翌日、裏の山に入ってみると、そこここに四輪駆動の太い轍の跡があり、木が何本かなぎ倒されていた。

 何か目的があるようには見えない。たぶん、いやがらせなのだろう。

 母の死から、まだ何日もたっていないというのに。叔父達にとって、実の妹ではないか。

 狡猾そうな叔父や従兄の顔を思い浮かべて、自分にも同じ血が流れていると思うと、岬はぞっとした。

 母が、出来ることなら岬を関わらせずに済まそうと思った気持ちがよくわかる。

 幼い頃は祖母や母と野山を歩き、昔ながらの物に囲まれて過ごすのが楽しかった。

 だが、成長するにつれ、少しずつ反発も覚えるようになった。

 母をよく訪ねてきた自然保護団体の人たちに対しても、まじめでこだわりが強く、信念だけで生きているようで窮屈に感じていた。

 けれどもあの叔父達と関わってそんな思いは吹き飛んだ。

 どんなに地味で飾り気がなくても、失いたくないものや守りたいものは確かにある。

 それから目をそらしたら、きっと自分が自分でなくなってしまう。

 涙がこぼれないように曇った空を見上げながら、岬は何とか冷静になろうと自分に言い聞かせた。


 一週間ぶりに職場に戻った岬に、夜勤明けの申し送りが終わって解散するのを待ちかねたかのようにすっと一回りほど年上の先輩が岬の傍らに来て声をかけた。

「うまくやったわね。」

 何のことだろう、と首を傾げる岬に、薄く笑いながら彼女はさらに畳みかけた。

「沢渡君、ご両親もう亡くなっていないもんね。反対される心配がなくて、良かったじゃない。」

 ここも、大波か。

 ひるむ想いをとっさに打ち消して、岬はもう隠すのをやめた栗色のひとみでしっかり先輩を見つめると丁寧に頭を下げた。

「このたびは、いろいろご迷惑をおかけしました。忙しいときに休んでしまってすみませんでした。」

 そして戸惑って口ごもる先輩ににっこりと微笑むと、背筋を伸ばしてさっさと仕事にとりかかる。

 岬の心の中に、星矢と琥珀のいる暖かいリビングルームが浮かんだ。

 居心地のいい、すっかり安心できる、やっと見つけた私の聖域。

 はじめは、優しくて頼れそうな人だと思った。

 すぐになれなれしくしてきたりせず、一定の距離を置く態度も信頼できると思った。

 異性関係では前の職場でちょっとこりごりしていたから、よけいに好感が持てた。

 両親を早くに亡くしたと聞いていたが、そんな風には見えなかった。

 大切に守られて愛されているような穏やかさや、何でも素直に受け入れる心の広さにどんどん惹かれていった。

 星矢の家に行き、琥珀と会って、その想いはますます強くなった。

 以前働いていたデイケアセンターの若い施設長に二またをかけられてショックだったけれど、今思えばあれは自分も甘かった。

 支えてもらいたい、頼りたいと夢中だった。

 岬の生い立ちの噂を聞いて、そんなの全然気にしないよ、寂しかったらいつでも素直に甘えてくれていいよ、などと言われて単純に引っかかってしまった。

(だんだん、私もお母さんに似てきたかな。)

 本当に大切だと思ってしまったら、かえって頼れなくなってしまった。こんな気持ちは初めてだ。

 母が叔父達から自分を遠ざけたかったように、今は星矢を巻き込みたくない。

 仕事で星矢を見かけても、つきあう前のように軽く会釈を交わすだけにとどめた。

 思ったより実家の整理に追われているとだけメールで伝えた。

 薫にも同じように言った。

 琥珀のことは星矢と自分がやるから心配しなくていい、と薫に言われて少しほっとした。

 面と向かったら、星矢は自分を心配していろいろ聞いてくるだろう。そうしたら、何も言わずにいる自信が岬にはない。

 一度見たら忘れられない琥珀の目。

 おまえは大丈夫かい、と問いかけられているようだった。

 私の大切な宝物を預けてもいいかい。

 岬は琥珀にはい、と答えたい。だから、今は一人でがんばろう。


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