第2部 Chapter 3 <2>
「まりちゃんだのあゆみちゃんだの、あんたもずいぶん色んな子に熱を上げてたけど、よかったろ、私のおかげで今まで他の女に引っかからないで。」
琥珀はすっかり岬が気に入ったようだった。
今まで何人かの女の子とつきあってきた星矢だが、どの子もみんな今ひとつピンと来なかった。
これはという子に出会った気がせず、長続きしなかったのだが、言われてみれば確かに琥珀のお眼鏡にかなわなかったことも別れた原因の一つかもしれなかった。
そういえば、うちも犬飼ってるから、と自宅からわざわざトイプードルを連れてきた子がいた。
悪気はなさそうだったが、やたらうるさく吠えついてきて、歳を取って少し気が短くなった琥珀が大きな声で一喝するとしっぽを巻いて粗相をしてしまい、それ以来気まずくなって別れたこともあったっけ。
満月の夜に琥珀と出歩いているときにばったり出会って、あとでしつこく問いただされ、面倒になって別れたことも・・・。
「薫ちゃんもいい子だが、つがいになるなら岬だね。」
琥珀のストレートな物言いには慣れていた。
星矢は笑って琥珀の背中を洗ってやる。背骨が浮き出て、変形している。
飛び出たところの皮膚が薄く赤みを帯びて、今にも突き破って骨が出てきそうだ。
これでは上半身にもあちこち痛みがあるだろう。
「人間だろうと犬だろうと、居場所を定めるのが大事なんだよ。居場所ってのは、生きていくのに一番大事なものなんだから。」
琥珀はふう、と息をついた。
「あんたもやっと自分の群れを見つけたね。これで私も安心だよ。」
「群れに仲間が増えたんだよ。賑やかになっていいだろ。」
星矢は笑って取り合わない。琥珀から別れじみた言葉なんて、聞きたくなかった。
長湯はよくない、そろそろ出ないと、と手を貸す星矢につかまって、琥珀はしわくちゃな身体でゆっくり湯船から出た。
慣れない手つきで琥珀が浴衣に着替えると、横向きに寝かせ、温まった薄い筋肉をゆっくりほぐすように星矢は琥珀の膝を丁寧にマッサージしてやる。
膝が痛いおばあちゃんのためにと薫に伝授してもらったのだ。
「・・・琥珀は、俺とふたりきりで、ずっと寂しくなかった?」
ほとんど骨と皮ばかりの琥珀の体をさすりながら、星矢は尋ねた。
自分にはいつも学校や職場に、友人や同僚や患者などたくさんの人とのつながりがあった。
だが、琥珀はその間、家の中でほとんどずっとひとりでいたはずだ。
野生の犬なら、群れの中で生きるのが当たり前のはずなのに・・・。
琥珀がよく口にする「群れ」という言葉を、琥珀はどのぐらい実感をもって語っているのだろう。
しかし答えはなく、気持ちよさそうな寝息が代わりに響いてきた。
琥珀の布団を整え、今度は自分もゆっくり露天風呂に浸かった。
のんびり手足を伸ばしながら、そういえば琥珀とふたりで旅行するなんて初めてだったと星矢は気づいた。
若くて元気な内に、もっとあちこち連れて行ってやれば良かった。人の時も、犬の時も。
家族旅行も、琥珀が家に来た初めての夏にキャンプに行ったあの時が最初で最後だった。
忙しさに流されていると、あっという間に大切な時間を逃してしまう。
そのうちいつか、と思っていると、そのうちなんていう日は何年たってもやってこない。
星矢は過ぎ去ってしまった時間を惜しんだ。
満月がそんな星矢の心を癒すかのように柔らかな光を投げかけていた。
翌朝は誰にも見られないように、日の出と同時に琥珀を車に戻した。
冷えるので、何枚も毛布でくるんでやった。
いったん部屋に戻って朝食を二人分食べ、急いで宿をチェックアウトした。
慌ただしいが、仕方がない。車で湖に行き、周囲を軽く散歩しただけで帰路についた。
日のある内に帰ったのは翌日の仕事のためでもあり、琥珀の体調のためでもあった。
昨夜見た琥珀は、もうすっかり使い果たしかけた天寿に近い身体だということが、仕事柄星矢にはいやというほどわかったのだった。




