第2部 Chapter 3 <1>
十二月、ボーナスをもらってすぐの満月の日に、星矢は約束通り琥珀と温泉宿旅行に出かけた。
祖母と温泉旅行、とうっかり薫に言ったら、何かあったら一人じゃ大変よ、と一緒に行きたがったが、休みが合わないのを理由に断った。
父の残した愛車のセダンは週に一度ぐらいしか運転していないが、十年物でもじゅうぶん走った。
乗り慣れない高速道路には少し緊張したが、琥珀を連れているので電車やバス旅行というわけには行かない。
いつもは遠くに小さく望む富士山が、巨大にそびえて見えてきたところでインターチェンジを降り、山里へ入っていく。あちこちで紅葉が美しく色づいていた。
日のある内は、遊歩道のある公園を琥珀を連れて休み休み散歩して歩いた。
夕方満月が上り、琥珀が小柄なおばあちゃんになると、二人で予約した温泉宿に向かった。
大きな掃き出し窓から、見頃の紅葉の大振りな枝がさしかかっていた。
窓の向こうには、広いウッドデッキと屋根付きの露天風呂があった。
「なんとまあ、贅沢なもんだね。あんたも立派になったねえ、私をこんなところに連れてきてくれるなんてさ。」
この間とうってかわって、琥珀はすっかりはしゃいで、声を弾ませていた。
たった一泊だったが、星矢のボーナスの半分近くが飛んだ。だがまあ、そのことは琥珀に言うつもりはない。
こんなに豪華な空間にいるのは、星矢だって初めてだ。
ここしばらくの何やかやが全て遠くに去り、久しぶりに心からのんびりして、素の自分に戻った気がする。
食事も部屋食で、時間になると仲居さんが二人分の食事を運んできてくれた。
「あれ、日本酒はないのかい?」
テーブルに並んだ食事を見て、琥珀は不服そうに眉を寄せた。
「これから風呂に入るんだろ。心臓に悪いからだめだよ。」
そう言う星矢に琥珀は、うるさいこと言うんじゃないよ、と星矢が自分用に一本だけ頼んだビールをさっさとコップに注いで、あふれそうな泡をすすった。
「しょうがねえなあ、ちゃんと酔いさましてから入れよ。」
星矢は肩をすくめた。
満月の夜の琥珀は、アルコールが欠かせない。
ふつうの年寄りだって、九十も過ぎればアルコールは口にしなくなるだろうに。
いつも冷や冷やしながら琥珀の飲酒を見守っているこっちの身にもなってほしい。
星矢はため息をついた。
もう歯も残り少なくなった琥珀は柔らかい物だけで食事を済ませて少しごろごろすると、さっそく部屋続きの露天風呂に向かった。
「背中流してやるよ。階段に気をつけて。」
星矢も施設実習の時のように、短パンにTシャツに着替え、琥珀につきそう。
露天風呂の向こうは生け垣で目隠しされており、雲一つない空のてっぺんには煌々と満月が輝いている。かけ流しの湯の流れる音が耳に心地よい。
今まで何度琥珀と並んで満月を見上げただろう。星矢はふとそんなことを思った。
琥珀は服を脱いで湯船につかりながら、あああ、と嬉しげに大きな息を吐いた。
「お前も一緒に入ればいいのに。」
「い、いいよ、俺は後で一人でゆっくり入るから。」
あわてて星矢は首を振った。
「言ってみただけだよ。大事な体は、あの子にとっときな。ほれほれ。」
琥珀はにんまりと笑って、子供がいたずらをするように湯をすくって星矢にかけてきた。
「やめろよ、服濡れちゃうだろ。」
星矢は飛び退いて、危うく滑って転びそうになった。
琥珀は初めての温泉がすっかり気に入ったようだった。
にこにこしながら手足を伸ばして、ゆっくり身体のあちこちをさすっている。
連れてきて良かった、と星矢は心から思った。こんなに喜ぶなら、ボーナスが半分消えても惜しくはない。




