第1部 Chapter 1 <4>
散歩から帰ると、市販のドッグフードと水をやった。
昨日ベッドの下に置いたえさは全部なくなっていた。
一晩たった琥珀はこの家と家族に慣れたのか、警戒するでもがつがつするでもなく、その場でゆっくりと平らげた。
「問題なさそうじゃないか。」
稔は安心して、部屋に寝に戻った。
「これなら明日から星矢一人でも大丈夫かもね。」
直子は安心してそう言った。
「春休みの間だけだからね。」
さっそく散歩を押しつけられたようで、警戒して念を押しながらも、星矢はすっかりわくわくしていた。
犬のいる生活。一人っ子の星矢には、きょうだいが出来たようなものだ。
二歳なら当然妹だ。うんとかわいがってやろう。
直子は手早く朝食を整えると、昼はカップラーメンね、と言い残して仕事に出かけた。
星矢は一人、リビングのソファに寝そべって琥珀をぼんやり見つめた。
昨夜は結局、夜中に部屋の中をうろうろしていたみたいだ。
朝になったら自分の服にくるまって寝ていた。
うちに来るまで、どこでどんな生活をしていたんだろう。
こんなに手がかからないなら、ひょっとしたら捨てられたんじゃなくて、道に迷っていたのかもしれないな。
たった一晩一緒にいただけなのに、星矢はもう琥珀がすっかり気に入っていた。
たとえ誰かがひょっこり迎えに来たって、とても返す気になんかなれない。
いや、一晩一緒にいたからじゃない。
譲渡会のあの日、自分をじっと見つめる琥珀に星矢はすでに心を奪われていた。
こうして、琥珀は沢渡家の一員になった。
春休みが終わり、星矢は中学校に入学した。
中学校は広い公園の向かい側にあって、家から公園を通って走れば五分の距離だった。
他の二つの小学校からの持ち上がりでグループもいくつか出来ていたが、クラスに二三人は星矢のように中学進学を機によその地域から引っ越してきた生徒もいた。
星矢は同じ市内に住んでいたので共通の話題や友人もいて、すぐに新しい友人が出来た。
部活はサッカー部に入った。
直子は自分が言い出した手前、基本的には散歩も食事も琥珀の世話は全て自分が引き受けた。
でも、週に一回の夜勤の時や連続勤務で疲れたときは、当然星矢や稔にお鉢が回ってきた。
稔は平日休みで一応週休二日だったが、どちらか一方はたいてい出勤だったし、朝が早く夜は遅いのでなかなか忙しかった。
けれども、休みの日は自分から進んで琥珀を散歩に連れ出したりブラッシングをしてやったり、はじめ渋っていたにもかかわらず、けっこう面倒見がよかった。
琥珀は水が苦手のようで、ブラッシングは大人しくさせるが、シャワーを浴びるのは大嫌いだった。
人間の方でも洗った後に毛を乾かすのが大変なので、これ幸いと琥珀をシャワーで洗うのはやめた。
雨の日の散歩もあまり好きではなく、用足しのために仕方なく出るが、近所でさっさと済ませて家に帰ろうとする。
だから雨の日の散歩は楽で良かった。
テレビに登場する名犬のように、ボールやフリスビーを投げたら取ってくるような芸当にはほとんど興味を示さなかった。
けれども星矢がサッカーボールを蹴っている時だけは一緒になって追いかけてきた。
興奮するととがった牙であごがはずれるかと思うほど大きな口を開けてかじりつき、穴を空けていくつもボールをだめにしてしまった。
木の枝も相変わらず大好きだった。
引っ張りっこをしてやると、うなりながら真剣にかじりついてくる。
だが、うなっても噛みつくことはなく、ちゃんと手加減しているようだった。
星矢から木の枝を奪い取ると、まるでライオンが獲物を捕らえて戦利品の骨を大事にしゃぶるように両方の前足でしっかり押さえ、悠々と木の皮を剥いでむしゃむしゃ食べ出すのだった。
その大まじめな野生ぶりがおかしくて、星矢はよく木の枝で琥珀と遊んでやった。
鳥や猫にも反応した。
獲物と思うのだろうか、しばらくじっと見定めていきなり襲いかかろうとする。
うっかりするとリードをぐいっと引っ張られて人間の方が転んでしまうほどの力だった。
よその犬に出会うと、向こうが吠えても動じず大半は無視して通り過ぎるが、遊びたい盛りの子犬や物怖じしない小型犬が寄ってきた時には、寝そべって相手の視線ぐらいに低くなって相手をしてやることもあった。
犬の散歩で知り合う人も多く、琥珀のおかげで直子や稔は近所づきあいが増えた。
土地勘も琥珀の散歩で細かいところまで養われた。
星矢の中学校での友達づきあいも、琥珀を通してよりスムースに広がっていった。