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第2部 Chapter 2 <5>

 とりあえず、岬の母親の転院が先決問題だった。

 星矢は岬に母親の生命保険を確認させた。リビングニーズ特約を付帯していれば、その申請をすれば費用はまかなえるはずだった。

 しかし、残念ながら特約は付帯していなかった。

 そこで生命保険会社で働いている幼なじみの裕太に電話して、死亡保険金を担保に医療費用を借りることは可能か聞いてみた。

 だが銀行や生命保険会社相手では無理だと言われた。

 身内に頼むという手もあると言われたが、それは一番あり得ない話だった。

 実家を抵当に借金するには、母の承諾がいる。

 そこで、岬の母に思い切って切り出した。

 すると、ずいぶん前になくなった祖父の遺産がある程度まとまった金額で残っていることが判明した。

「私に残そうとしてくれたみたいだったけど、従兄が私の家にまで来るようになって、私も心細いからって説得したの。

 今までもさんざん叔父さん達に私たちの貴重な時間を横取りされてきたんだもの。この際、二人で贅沢しましょうよ、っておねだりしてみたら、納得してくれた。」

 岬は嬉しそうに星矢にそう告げた。

 それから数日後に、岬の母は星矢達の住む町からバスで二十分ほど離れた、郊外の静かなホスピス病棟に転院した。

 料金が高い分融通も利いて、家族も長期間一緒に生活できるようになっていた。

 岬は、ここで母と一緒に残された日々を暮らすことになった。

 転院先はもちろん叔父達には知らせなかった。


 岬が病院に移った次の日は、満月だった。

 しばらく岬と一緒に暮らしたのに、琥珀は何も言わなかった。

 今まで星矢が家に連れてきた子のことは、あとでさんざん難癖をつけてきたのに。星矢は拍子抜けしてしまった。

「今晩もし岬がいても、きっと琥珀を受け入れてくれたと思うよ。」

 星矢が言うと、琥珀は、

「そりゃそうだろ、あの子は特別だ。」

 と、きっぱり言い切った。

 それっきり、琥珀はいつになく口数が少なく、ぼんやりしているように見えた。

 穏やかな表情で時々一人でにこにこ笑っている。

 今までにないその様子が、一気に歳を取ったように見えた。

 そんな琥珀に戸惑いながら、星矢はいつものように風呂を沸かしてやり、風呂上がりに琥珀が納得するぎりぎりまで薄めた日本酒を出してやった。


 岬達親子が落ち着いた頃、星矢は母親の病室を見舞った。

 壁やカーテンやリネン類が上品なベージュピンクに統一された個室は静かで日当たりがよく、重厚な色と柄の毛足の長い絨毯が一面に敷かれ、落ち着いたモスグリーンのビロード張りのソファーのセットもあり、まるでヨーロッパの映画に出てくる部屋のようだった。

 レースのカーテンが引かれた窓際のベッドには、骨格に何とかその人らしい風貌がかろうじて残っている、と言った感じのやせ衰えた岬の母親が枕をいくつか重ねた上に少し上半身を起こして横たわっていた。

 肉が落ちてすっかり小さくなった顔の中でひときわ目立つ二つの瞳だけが、生気とわずかな情熱に輝いて見えた。

「初めまして。沢渡です。」

 少し緊張して挨拶する星矢に、岬の母はにっこり笑った。

「このたびは、娘共々大変お世話になりました。」

 そう言ってわずかに頭を下げる岬の母は、五十代なかばぐらいだろうか。か細いが、しっかりした声音だ。

「ね、すてきな人でしょ。」

 岬が二人の間に立って、嬉しそうにほほえむ。

「そうね。沢渡さん、岬からいろんな騒動のこと、詳しく聞きました?」

 岬の母に尋ねられ、星矢ははい、と頷いた。

「それで、あなたはやはり家や土地やお金に興味がありますか。」

 いきなりの質問に、星矢は不意を打たれてとっさに言葉が出なかった。

「お母さん、失礼じゃない。」

 岬があわてて取りなす。

「いえ、それは岬さんとお母さんの問題ですし、僕自身は特に。」

 なるべく冷静に、星矢は返した。

「ならば、いいんだけど。」

 岬の母親は目を落として小さくため息をついた。

「嫌なことを聞いてしまってごめんなさい。

 でも、今はもうこの子を守ることが私には出来なくて。

 もとはといえば、私が岬を巻き込みたくなくて、ちゃんと事情を話さなかったのがよくなかったんです。」

「いつかは私もこうして嫌な思いをしなくちゃいけなかったのよ。もう考えるの、よしましょう。」

 岬が慰めるように母の手を握った。

 少し言葉がとぎれた後、岬の母は顔を上げた。

「沢渡さん、家にすてきな犬がいるんですって?」

 にっこり笑うと顔が輝いて、一瞬健康を取り戻したように見える。

「岬に聞きました。まるで狼みたいに気高い犬だって。」

「もうずいぶん年を取っていますが。」

 星矢はうなづく。岬がそんな風に琥珀のことを話してくれたのが嬉しい。

「うちのほうの山にも、昔はオオカミがいたそうですよ。お犬様って呼んで、敬っていたはずなのに。」

 いつの間にか人々の信心は薄れ、オオカミはいなくなった。

「何かを大切に思う気持ちって、どうしてなくなってしまうものかしらね。」

 岬の母親は独り言のようにつぶやいた。

「まだ、どこかで隠れて生きているかもしれないわよ。」

 岬が母の枕元でささやいた。

「そうね。オオカミだって、カワウソだって。」

「河童や竜だっていたりしてね。」

 母と娘は夢見るように語り合う。

 ふと、星矢は琥珀を思った。

 狼が神のようにあがめられていた時代、琥珀のような不思議は意外と多くあったのかもしれない。

 そんなことを思いながら、星矢は岬母娘をまぶしい想いで黙って見つめていた。


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