第2部 Chapter 1 <6>
ここ一ヶ月ほどは、鏡を使った機能訓練をしていた。
テーブルの前に座った患者の身体の中心に、大きな鏡を置く。
患者は麻痺のない側から鏡を見て、動く方の手の指を曲げたりのばしたり、簡単な作業をしたりする。
すると、鏡に映った映像が反対側の手として脳が錯覚する。
それを繰り返す内に、少しずつだが動かなかった手が反応して動くようになる。
研修で事例を聞いて、星矢が増田のためにさっそく取り入れた方法だ。
付き添いの奥さんにも説明して、家でもやってもらうようにしている。
今日もその経過を見たが、やはり一朝一夕にはうまくいかない。
それでも時々、わずかだが右手の指がけいれんするように動くことがある。
こういった新しい地道なリハビリは、成功事例も少なく、劇的な効果も患者の達成感も期待できないので、あまり採用されない。
患者の希望がなければこちらとしても取り入れようがないのだが、増田は快く星矢の提案を受け入れて、試してみてくれていた。
「まあ、気休めだってわかってるけどな。動かねえもんはどうしようもないな。あきらめたよ。」
そう言って笑う増田に、
「増田さん、あきらめるのと受け入れるのは違いますよ。
あきらめちゃったら、奇跡も起こらないじゃないですか。
何も完全に元通りになることだけが奇跡じゃない。かえって、今までよりもっとすごいことが出来るようになるかもしれないでしょう。」
とはっぱをかけるつもりで星矢は言った。
「はは、若先生もずいぶん立派なこと言うようになってきたねえ。オレに片腕のボクサーにでもなれってか。」
もとは建築現場で体を使ってばりばり働いていた増田だ。
左半身は、動かない右半身を補うためか年齢の割にまだまだしっかり筋肉が着いている。
「増田さん、釣りが好きだって言ってたでしょう、釣りなら片手でも出来るんじゃないですか。」
「今更船にも乗れねえよ。もっと気の利いたこと言えよ。これでもオレは、昔画家になりたかったんだぜ。」
「え、そうなんですか。」
驚く星矢に、付き添いの妻が、少し恥ずかしそうに言った。
「昔、私の絵を描いてくれてね、それでまんまと引っかかっちゃったんです、この人に。」
「だからよ、こんなになったオレにもういっぺん引っかかってもらうために、またこいつの絵を描こうかと思って今がんばってるところだよ。」
そう言って笑う増田に、星矢は顔から火が出る思いだった。
またやってしまった。先生なんて呼ばれていい気になってアドバイスしようとしたりして。
星矢の知らない、増田の生きてきた人生にあれこれ指図しようなんて、思い上がりもいいところだった。
「まあ、そんな気にさせてくれたのも若先生が一喝してくれたおかげかな。これからもよろしく頼むよ。」
星矢の気を知ってか知らずか、そんな風に言ってくれた増田だった。
(みんなそれぞれの思いがあるのに。どうせやるなら、ここでも一対一でじっくり接することが出来ればいいのになあ。)
午後のレクリエーションを考えながら、星矢はぼんやりそんなことを考えていた。
仕事を終えて、家に帰る。灯りをつけると、リビングで琥珀がむくりと起きあがる。
「そろそろ、夜は寒くなってきただろ。自分で暖房入れられたらいいんだけどな。」
せめて食事だけでも温かい物をと、琥珀のドライフードに少し沸かした湯を入れてやる。
最近は、堅い物が食べづらい琥珀のために、フードはふやかしてやっていた。
のそっと立ち上がる琥珀の、右の後ろ足が少し震えている。
この間、自分でさすっていたところだ。
「おまえ、白髪増えたね。」
星矢はフードをゆっくり食べる琥珀の背中が、かなり白っぽくなっているのを見てそう言った。
毛の手触りがだいぶぱさぱさしてきたし、自慢のしっぽも貧弱になってきた。
「この間は悪かったなぁ、スーパー銭湯行けなくて。まあ、酒飲めて、刺身食えて、良かったか。」
えさを食べ終わって舌なめずりしながら、まあね、とでも言いたげに、琥珀は星矢を振り返った。スーパー銭湯は今度でもいいよ。そう言っているようだ。
若い頃はあんなにシャワーをいやがっていたのに、琥珀はいつの間にか人間の時は大の風呂好きになった。
このごろでは自分で風呂掃除が出来ないので、星矢が遅く帰ってきても、ねだってきちんと風呂をわかさせる。
星矢はシャワーだけで構わないので風呂掃除は面倒だが仕方がない。
何年か前に、浴槽の周囲に何カ所か手すりもつけてやった。
もちろん、入浴中は時々声をかけたり様子を覗いたりしてやっている。
この間は遅くまで薫がいたので、家の風呂にさえ入れなかった。
「そうだ、ボーナス入ったら、露天風呂付の温泉旅館で一泊旅行しようか。銭湯はやっぱり危ないよ。部屋に露天風呂が付いてる旅館なら、俺がずっとそばで見ててやれるしさ。」
そう言ったものの、おばあさんと一緒に露天風呂に入る孫は端から見てどうなんだろうなぁ、と星矢は顔をしかめた。やっぱりこの案は却下しようか。
でも、琥珀はしっかり聞いたようだった。
ボーナス入ったら、温泉旅行だね。
琥珀の目が、念を押すように星矢をじっと見つめた。




