第2部 Chapter 1 <2>
「さ、とりあえずビールね、お疲れさま。」
薫がよく冷えた缶ビールのプルトップをプシュッと空けてグラスに注いでくれるのを、星矢は自然に受け取った。
気が付くと、その辺に脱いだ上着がきちんとハンガーに掛かって壁のフックにかけてある。
何だか、彼女みたいだなあ。このままだと、本当にちょっとまずいことになりそうな気がしないでもない。
「おばあちゃんは何にする?ウーロン茶、あるわよ。」
「とりあえずビールおくれ、私にも。」
琥珀はむすっとしてあごで空のグラスを指さす。
「大丈夫う、おばあちゃんいくつよ。」
「さあね、十六だったか、十七だったか・・・。」
「まあすてき。永遠の乙女ね。じゃ、かんぱーい。」
薫の音頭で、三人で乾杯をする。
星矢と薫は一気にグラスを空け、琥珀もかなり豪快にごくごくのどを鳴らして半分ぐらいは空けた。
「ちょっとは控えなよ、あとでまた胸が苦しくなるよ。」
星矢はあきれる。
「でも偉いわね、毎月おばあちゃんを老人ホームから外泊させるなんて。おばあちゃん幸せね、こんな孫を持ってさ。」
薫は星矢と琥珀を代わる代わる見つめて言った。
さりげなく、テーブルにおいた星矢の手に自分の手を重ねる。
慣れてしまって、星矢も特に拒みはしない。
「そう言えば、琥珀ちゃんは?見あたらないわね。」
ふと思い出してきょろきょろする薫に、琥珀が澄まして答える。
「さっき、あんたが来る前に珍しく二階に上がっていったよ。」
ずいぶん気が利くようになったなあ、と星矢は感心した。
今の琥珀の風貌から、ここ数年は人に見られて何か聞かれたら星矢の祖母ということになっている。
普段は老人ホームに入っており、毎月星矢の家に泊まりに来るという設定だった。
母方の祖母は健在だったが、遠方にいるのでたまに電話で話はするが、行き来はない。
星矢と出会って、もうすぐ十五年。その頃二歳ぐらいだったのだから、人間の歳で言えばもう九〇歳は過ぎているだろうか。
階段の上り下りが辛そうなので、数年前から寝床は二階の星矢の部屋から一階のリビングになった。
星矢自身も、一人暮らしの気軽さでリビングのソファでごろ寝することが多い。
「それより、そろそろあのモンテカルロとかいうワインを開けようじゃないか。」
琥珀は仏壇をあごで指して、薫に催促した。
「おばあちゃんすごいわ、省略して新種のワインになっちゃった。」
薫は真面目に感心して、目を丸くした。
「ワインはサイダーで薄めなよ。ビールより度数高いんだから。」
星矢はあわててそう言った。
流れで泊まって行こうとする薫を何とか丁重に追い出したときには、もう夜も更けていた。
悪いとは思うが、今夜ばかりは泊まってもらっては困る。
朝起きて忽然とおばあちゃんが消えていたら、説明のしようがない。
琥珀はソファで横になってうとうとしていた。
その丸い背中にそっと毛布を掛けてやり、星矢は散らかったテーブルを片づけ始めた。
この七年間、琥珀は星矢のたった一人の大切な家族だった。
家に帰れば、必ずそこにいる。ただいまと声をかける相手がいるのは、ありがたい。
あと何回、こうして琥珀と人間のつきあいが出来るだろう。
その思いが時々嫌でも頭をよぎる。そのたびに、星矢はそんな考えを振り払う。
琥珀は世にも珍しい、狼女なんだ。もののけや妖怪は、長命と相場が決まっている。ひょっとしたら、自分よりずっと長生きかもしれない。
だが、すぐにまた厭な考えが浮かんでくる。ならどうして、人間の琥珀の姿もどんどん年を取っていくんだ・・・。
寝返りを打った琥珀が危うくソファから落ちかける。
あわてて支える星矢は、琥珀が無意識に片方の膝を手のひらでさすっているのに気が付いた。
(けっこう、痛むのかな。)
最近、後ろの右足を時々ひきずっている。
動物病院では、加齢から来る関節炎で、あまり長距離の散歩はさせない方がいい、と言われていた。
若い頃は朝晩一時間ずつたっぷり散歩をしていたが、このごろは用足しがてら近所を十分程度がせいぜいだ。
星矢の仕事が休みで時間のあるときは、たまに車であちこちの公園に連れて行き、目先を変えてやったりもするが、日々のほとんどを家の中で寝て過ごしている。
布団を床に敷き、琥珀を抱き上げて寝かせた。
人の姿の琥珀は、ここ数年で背も縮み、体重もずいぶん軽くなった。
歯がだいぶ抜けたが、一ヶ月に一度では歯医者に通って入れ歯を作るわけにもいかなかった。
目が見えにくくなったせいか、筋力が衰えたからか、足元がだいぶおぼつかなくなった。
そんなことを数え出すときりがない。
星矢は軽くため息をついて、大きくのびをした。明日の朝も早い。
シャワーを浴びてから、琥珀の隣に星矢も潜り込んだ。




