第2部 Chapter 1 <1>
数年後、星矢と琥珀の日々は続いていた。
星矢は成人し仕事に就き、琥珀はすっかり年老いている。
住宅街の細い通りから、玄関に灯りがついているのが見える。
少し、帰りが遅くなってしまった。
星矢はガレージに自転車を停めようとして、そこに見慣れたバイクがあるのを見て驚いた。
「え、なんで薫さんがいるの?」
星矢は仰天する。今夜は、琥珀が・・・。
「ただいま。」
門扉から玄関に続く階段を上ってドアを開けると、正面のリビングからおかえり、と振り返ったのは同じ職場の柴田薫だった。
「お父さんの誕生日。ワイン、持ってきたわよ。」
薫は、端正な顔立ちにすっきりしたほほえみを浮かべて、星矢を見つめた。
「おばあちゃんも、お待ちかねよ、さ、早く上がって上がって。」
いったいだれの家なのだ、と星矢はあっけにとられた。
星矢は福祉系の大学を出ていくつかの資格を取り、市内の総合病院で主に作業療法士として働いている。
薫は同じ病院で働く理学療法士で、仕事上のつきあいも深い。
歳は一回りほど上で、同性でも見とれてしまう整った顔立ちをしている。
学校の美術室に必ずレプリカが飾ってある、あのギリシャだかローマだかの白い彫像に似ていると星矢は思う。
それでいて全く自然に女言葉を使うので、見た目とのギャップが激しい。
総合病院を核に、老人保健施設と特別養護老人ホームを付帯している、市内で一番大きなその医療法人に入社したての頃、あちこちの現場で実習中に腰と肘を痛めてしまった星矢を、薫は柔道整復師の熟練の腕であっという間に直してくれた。
以来、休みの日は友人として行き来するようになり、家が近いこともあり、いきなりやって来ることも、そのまま泊まっていくことも少なくなかった。
星矢に想いを寄せて距離を縮めてくるのが、ありがたいような危険なような複雑な気分ではあるが。
(そうか、琥珀が招き入れたんだ。)
今日は琥珀が自分で家の鍵を開けられる日だ。
星矢はそう気がついて納得した。
リビングの小さい仏壇に、すでにワインが供えられてあった。
ピエモンテのバローロ。高級品じゃないか。こんなのもらうわけには・・・。
「気にしなくていいのよ、店のあまりものだから。」
星矢の表情を読んで、薫は言った。薫の実家は酒屋だ。
店は三つか四つ年上の兄が継いでいた。結婚して子供も二人いる。
薫は手狭になった実家を出て、近くにアパートを借りて一人暮らしをしている。
父の誕生日なんてよく覚えていたな。星矢は薫の細やかさに脱帽する。
星矢の父が突然の交通事故で亡くなって、七年がたつ。
二十歳の誕生日を迎えてすぐ、星矢は両親とも失い天涯孤独になってしまった。
いや、正確にはもう一人。
リビングのソファに不自然に傾いて正座している小柄なおばあちゃん。
薄い白髪をひっつめて後ろで結わえ、小豆色のセーターに茶色のズボンをはいている。
頬はたるんでしわくちゃで、背中はしばらく前からだいぶ丸まっていた。
「遅かったね、薫ちゃんと先に始めようかと思ってたところだよ。」
金茶色の瞳が非難するようにじろっと星矢をにらみつける。
「ごめん、急に会議が入って、遅くなった・・・。」
「いいじゃないの、おばあちゃん。間に合って良かったわね。さ、乾杯しましょう!」
薫は嬉しそうだ。テーブルの上には、鶏の唐揚げやポテトサラダ、なぜか餃子に春巻、刺身まである。
「いろいろ買って来ちゃった。今日は私のおごり。誕生日のたんびに、お父さんにワインをお供えする親孝行の星矢君に感動してんのよ、私。おばあちゃんも一緒で良かったわ。ごあいさつできて、嬉しい。」
「そんなに気にしてくれなくていいのに。まあ、でも、せっかくだから、いただきます・・・。」
星矢は、傍らの琥珀をちらりと見やった。
今夜は一緒にスーパー銭湯に行く約束をしていたのだ。
だが、薫は家に来るたび犬の琥珀に「だいぶお年ね、この辺つらいでしょう。」と身体の具合の悪いところを的確に探し当ててさすってくれるので、以前から琥珀は薫がお気に入りだ。
今夜も快く家に招き入れたところを見ると、これで納得しているらしい。
目の前にビールやワインがあるせいか。
もう歳だから、あまり深酒をしないでくれると良いのだが。
そういえば、琥珀が人間の姿で薫と話すのはこれがはじめてだ。
星矢が帰ってくるまでに、どんな話をしていたのだろう。
ソファに座る前に、星矢は仏壇の両親の写真に手を合わせて目を閉じた。
(ばかだね、結局イタリアには行かないで、さっさとおふくろのところに行っちまって。)
目を開けて、父の遺影を軽くにらむ。
二人で、天国経由でとっくにイタリア旅行に行ってしまっただろう。
残された星矢は仕方がないので、毎年約束通り仏壇にワインを供えることにしている。
命日だと辛気くさいので、誕生日にしてやった。そう、薫に言った気がする。
そのとき薫は涙ぐんでなんて感動的な話だろう、と言っていた。
誕生日を聞かれたので、十月七日、と答えたような気もする。




