第1部 Chapter 5 <3>
「お母さんと一緒だった?満月の夜に?」
「そうだよ。なんでそんなにびっくりするの?」
琥珀はきょとんとして星矢を見つめた。
「だって、それじゃ、ばれちゃうじゃないか・・・。」
言いかけて、星矢ははっとした。
「お母さんも、知っていた?琥珀のこと?」
「あらやだ、本当に知らなかったの?もうずいぶん前から、お母さんは知ってたよ。何度も一緒に出かけたし。」
固まっていた星矢の心の壁に、思いがけない衝撃でひびが入った。
「知らなかった・・・。」
そして、琥珀は嬉しそうに直子との日々を語り始めた。
「最初に気づいたのはね、初めてこの家に来た年の秋だったな。日が暮れるのがどんどん早くなってきた頃。
お母さんが休みの日に、散歩のついでに寄り道して買い物して、ちょっと遅くなっちゃって。そろそろまずい、と思っている内に気が付いたらどんどん姿が変わるでしょう、人に見られたら変だから、思い切ってお母さん、って声をかけたの。
お母さんのびっくりしたことったらなかったわ。振り返ったら、裸の見知らぬ女がリードつけているんだもの。」
そのときの直子のたまげた様子と、情けない琥珀の姿がありありと目に浮かんで、星矢は思わず吹き出した。
「でもお母さん、さすがだったよ。あらまあ、あんた琥珀なの?って。
やだやだ、そんな格好で、って重ね着していたお母さんのワンピースを貸してくれて、お母さんはTシャツ一枚になって。
二人で腕組んで歩いたよ。あんまりふつうに信じてくれたから、私のほうがびっくりしちゃって、お母さん、私が琥珀だってどうしてわかるの、って聞いたの。
そしたら、だって赤い首輪とハーネスつけてはだかんぼだったら、それはもう琥珀でしょう?って言うの。
私、星矢が子供のくせにあんまり理屈っぽくてなかなか信じてくれなかったから、大人なんてもっと大変だろうって思ってた。」
「そんなの、初耳だよ。どうして教えてくれなかったんだよ。」
「もちろん、話そうとしたよ。でも、お母さんが言うには、お父さんはあの通り常識人間だから知らないままでいい、私が知ってることは星矢には言わないでおきましょう、そうしないとお父さんだけ仲間はずれになってしまうからかわいそうだ、って。」
星矢の中で凍てついたしこりになっていたものが、ゆっくりと溶けていく。
「私のために服や下着や靴下を買ってくれて、あんたに必要だと思うから、ここに入れておくね、って、星矢の部屋の引き出しを一つ、私専用にしてくれたの。」
男達からのプレゼントばかりではなかったのだ。
あの、いつの間にかいっぱいになっていた引き出しの中身のほとんどは、直子から琥珀への気遣いだった。
「ぼくだけ、何にも知らなかったんだな。」
星矢はつぶやいた。いったい、自分はどれだけ母のことを知っていたのだろう。そして、母と琥珀の絆を。
「何度か、お母さんと二人で夜の街に出かけた。
お酒飲みに行ったり、ショッピングしたりして楽しかったなぁ。
先月は二人で閉店まぎわのスイーツ食べ放題に行ったんだ。
その時お母さんが、もうすぐ仕事を辞めるから、そしたら二人で旅行に行こうって言ってくれたんだよ。
犬も一緒に泊まれるコテージがあるから、忙しい男達は置いといて、二人でおしゃれな高原にでも行こうって。がんばって車運転して、連れて行ってあげるって・・・。」
琥珀は生き生きと直子との思い出を語っている。
直子が亡くなってから、星矢は心の底でずっと後悔していた。
あの日、体調が悪いからと珍しく早退してきたのに、ろくに話も聞かずさっさと自分の部屋に行ってしまった。
琥珀の散歩も、きっと無理を押して出かけたに違いない。あの時もう少し気遣って病院に行くように勧めたり、琥珀の散歩も自分が行っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
直子のことは近所でも噂になっていて、知っている人に会うたび、病気の母親に犬の散歩をさせて死なせてしまった子だ、と思われているような気がして怖かった。
父の稔も何も言わないが、そのことを怒っているのだと思っていた。
あまりうしろめたくて、あのとき起こして頼んでくれれば良かったのに、と死んだ直子を恨みもした。
(全部、勝手な思いこみだったんだろうか。)
うつむく星矢の肩を琥珀の両腕が優しく包んだ。
「ここでね、お母さん、わぁ夕日がきれいだって、とても幸せそうに見ていた。
なんか具合悪かったけど、この夕日を見たらすっきりした。さあ、うちに帰って晩ごはん作ろうって言って。
なのに、急に頭が痛くなって、倒れてしまった。私、その時わかったの、お母さんはもう終わってしまうんだって。」
こらえきれず、小さい子供のようにお母さん、と何度もつぶやきながらすすり泣く星矢の背中をあやすようにさすりながら、琥珀は穏やかに語った。
「でも、お母さんがちっとも苦しそうじゃなかったから、ほっとした。みんないつかは命を終わっていくけれど、お母さんはすごくいい人だったからあんな風にすてきに終わっていけたんだなあ。」
すてきに終わった。そうだろうか。本当にそうだったらいい。苦しまないで、最後に見たのがきれいな夕日で、幸せな気持ちのままだったんなら・・・。
星矢は祈るようにそう思う。それだったら、耐えられる。母の笑顔をもう二度と見られなくても。
「だから、星矢も元気出して。私がずっとそばにいてあげるから。」
そう言ってほほえむ琥珀に、星矢は鼻をすすりながら悪態を付いた。
「そばにいてあげるって、偉そうに。世話してもらうだけじゃないか・・・。」
琥珀はぺろっと舌を出した。
「だよね。ごはんもらって、散歩に連れて行ってもらって、一日中家の中でごろごろして。
シャワーや病院は好きじゃないけど、まあしょうがないか。爪切りもあんまり好きじゃないけど、まあしょうがないか。」
いったいどれだけわがままなやつだ、と星矢は泣きながら笑いだした。




