第1部 Chapter 5 <1>
直子は職場に退職を宣言してから、割り切って勤務交代や夜勤の追加を断れるようになった。
だから以前に比べ、今は仕事が少し楽になってきている。
最後のボーナスをもらって、七月いっぱいで退職する。
そうしたらこの夏はいったんリセットしてゆっくり休もう。
そう思うと、日々の疲れも少し軽くなる気がした。
稔の仕事は相変わらずだったが、新しいシステムがだいぶ落ち着いてきて、深夜や早朝の呼び出しはなくなってきた。
もうひとがんばりすれば、夏にはまとめて休みも取れそうだった。
去年は家族の休みが合わず、今年は星矢が高校受験なので二年続けて家族旅行はなかった。
たまには家で家族三人そろってゆっくりしようか。
星矢ももうだいぶしっかりしてきたから、直子と二人で出かけてもいいかもしれない。
星矢にとって最初で最後の公式戦は、三回戦まで勝ち進んで敗退した。公立の弱小サッカー部にしては快挙だ。
星矢のこれまでの二年と数ヶ月が一気に報われた気がした。
これで、受験勉強に専念できる。夏休みになれば、塾の夏期講習だけだ。今までよりは少しゆっくり出来るだろう。
それぞれががんばりすぎた時期が終わろうとしていた。季節は初夏から夏へと変わりつつあった。
梅雨に入ったが、雨はそれほど降らず、代わりに強烈な蒸し暑さが毎日続いた。
内申書に影響する学期末試験がようやく終わった日だった。
星矢は数日間ほとんど徹夜してしまっていた。
午後の授業はなく、今日は帰ったら夜まで寝てやる、とじんわりと汗をかきながら帰宅した星矢を、珍しく直子が待ちかまえていた。
「おかえり。」
「あれ、今日休みだったの?」
確か朝は星矢より早く家を出たはずだ。
「うん、ちょっと具合が悪くなって、早めに帰ってきた。」
そう言う直子は少し元気がなさそうに見えたが、それを気遣う余裕は星矢にはなかった。
「昼飯、食べないで寝る。」
そう言い捨てて二階の自分の部屋に上がると、星矢はそのままベッドに倒れ込んだ。
ベッドの脇の小さい扇風機のスイッチを入れたところで、すとんと眠りに落ちた。
「星矢!起きろ、おい!」
強く揺すぶられて、星矢は目を覚ました。
室内はいつの間にか真っ暗だった。
開け放したドアの向こうから差し込む電灯の光がまぶしくて、星矢は目をしばたたいた。その光を遮るシルエットは、父の稔だった。
「お母さんが大変だ、早く起きろ!」
稔の声は張りつめている。
「え、な、何?」
まだ半分寝ぼけまなこの星矢を稔は無理矢理追い立てて、玄関の前にハザードランプをつけて停めてある車に押し込んだ。
車はすぐに走り出し、いつもの稔とは別人のようなせわしく急なハンドルさばきとスピードに、星矢はただならぬ気配を感じた。
「お母さんがどうかしたの?事故?」
「公園で倒れた。琥珀と散歩中に。」
稔はそれ以上星矢があれこれ質問をしても何も答えなかった。車はじきに救急病院に着いた。
二人が集中治療室に駆けつけたとき、すでに直子の息はなかった。




