第1部 Chapter 4 <3>
「どうされましたか。」
「あの、足の裏が腫れていて、かゆがっているようなので連れてきました。」
一応、それだけ告げる。もしかして、他にも具合が悪いかもしれない。ちゃんと見てもらわないと安心できなかった。
診察券を見てカルテを探す獣医師の横顔に、星矢はあっと気がついた。
数年前、家族で御峯山に行った時に出会ったあの青年ではないか。琥珀の一本多い足の指を「ロウソウ」と言うのだ、と教えてくれた、獣医学部の学生。
「では、診察室へどうぞ。」
診察室にはいると、星矢は青年に手伝ってもらって、琥珀を診察台の上に乗せた。
ダイニングテーブルほどの高さの台の上に乗せられると、琥珀は観念したように固まったが、よく見ると小刻みに震えていた。
青年はてきぱきと琥珀の様子を見た。
「ダニが付いてるね。もう時期的には毎月駆除した方がいいよ。目も少し赤いかな。ほら、ここ、見てごらん。」
青年が琥珀の両目のまぶたを広げてみせると、確かに左目だけかなり充血して、黄色いねばねばした目やにが目の縁にべっとり付いていた。
「フィラリアの薬はもう飲ませてる?」
どうだったろう。星矢ははきまりが悪かったが、わかりません、とうつむいて答えるしかなかった。
「春の検査では陰性だったけど、今年ももう蚊が出てるから、まだだったら今日帰ってすぐ飲ませてやってね。」
カルテを見て、青年はそう言った。彼は気づいていないのだろうか。それとも、星矢の記憶違いだろうか。
思い切って、星矢は尋ねてみた。
「あの、以前会ったことありますよね。御峯山のそばで・・・。」
「うん。覚えてるよ。二年ぐらい前だよね。」
青年はうなづいてにっこり笑った。彼も、琥珀を覚えていたようだ。
「獣医さんになったんですね。」
「うん。実は今年ここに入ったばっかりの新人なんだ。ばれちゃったな。
まだ研修中だから、本当はベテランの先生が見ないといけないんだけど、たまたま今日は急用で夕方までぼく一人でね。でも、たいしたことのない患者さんでよかった。」
そうか、新人の獣医さんだとばれたら困るから、ぼくが言うまで黙っていたんだな。星矢は何となくほっとした。
覚えているのによそよそしくされたのは、琥珀をちゃんと世話してやっていないことに気づかれたからではなかったのだ。
この病院で働いているということは、卒業して家に戻ってきたのだろう。
確か、この人も犬を飼っていると言っていたっけ。思い出して、星矢は聞いてみた。
「そう言えば、犬、飼ってるって言ってましたよね。元気ですか。」
「先月、死んじゃったんだ。もう十六才だったから、仕方がないんだけどね。」
青年はちょっと顔を曇らせて言った。悪いことを聞いてしまった、と星矢は口ごもった。だが青年はすぐに明るい口調で言った。
「もう、わんわん泣いたよ。一週間、仕事も休んでしまった。何もやる気が起きなくて、犬や猫を見るのもつらくって。そしたら、ここの年取ったおじいちゃんの院長先生が、泣けるだけ泣きなさいって言うんだ。」
青年は琥珀の目にリトマス試験紙のような物を当てて検査をしたり、目薬を差したりしながら、話し続けた。
「残された自分のために、たくさん泣けって。死んた犬はちっともかわいそうじゃない、すごく大切にされて、楽しく生きたんだから。でも残された君は確かにかわいそうだから、うんと泣くといいよ、ってね。」
青年はにっこり笑った。星矢は愛する生き物の天寿を全うさせた彼のすがすがしい笑顔をうらやましく思った。
そして、自分たちが放置したせいでもし琥珀が、と思うとぞっとした。
家の中に閉じこめられて散歩にも連れて行ってもらえず、えさも水も与えられず・・・。
罪悪感で胸がいっぱいになり、星矢は下を向いたきり何も言えなくなってしまった。
そのあと青年はサービスだよ、と伸びきった琥珀の爪を全部きれいに切ってくれ、目薬と足の裏の塗り薬を処方し、フィラリア予防とノミやダニ除去の薬が家にあるかどうか確認するように星矢に念を押した。
「ぼく、薄井といいます。今後もよろしく。」
そう言って、彼は星矢と琥珀に手を振った。
琥珀は逃げるようにぐいぐいリードを引っ張ってドアに向かい、星矢は会計を済ませるとあいさつもそこそこに病院を出た。




