第1部 Chapter 4 <2>
五月の連休明けに中間テストが始まった。
三年の一学期の定期試験の成績は、内申書に影響する大事なテストだ。中間も期末も手を抜けない。
初日はまずまずの出来で星矢はほっとしていたものの、試合が近いので家で昼食をとってからサッカー部だけ再登校で練習があった。
今年も星矢の中学のサッカー部は、あまり好成績はとれそうになかった。
他の学校も同じ条件なのだから泣き言は言えないが、たいていの学校は二年生が主力で、三年で出場するのはサッカー推薦で高校に行くような強者だったから、星矢のように大して実力がないのに三年でもかり出される弱小校にとっては、負担が大きかった。
それでも、去年までは一度も大会のレギュラーにはなれなかった星矢が、初めての晴れ舞台である。せめて、一回戦だけでも勝ちたかった。
玄関のドアを開けると、いつもそこにいるはずの琥珀の姿がなかった。
不思議な気がしたが、空腹感がまず先に立ち、キッチンでレトルトカレーを温めて昼食にした。
どこかで、キューン、とかすかに琥珀の鼻鳴きが聞こえる。
具合でも悪いのだろうか、と星矢は琥珀を探しながら、そう言えば最近琥珀の顔を見ていないなぁと改めて思った。
琥珀は、風呂場にいた。
風呂場には大量の糞があり、おしっこくさいにおいの中に、琥珀が舌を出して肩ではっはっと息をしていた。
星矢に気づくと、哀れっぽい目をして、ピー、と鼻鳴きをした。
「どうしたの、琥珀・・・。」
そう言いかけて、ある考えが頭をよぎった。
もう何日も、自分は琥珀の世話をしていない。
リビングのソファの下に隠れている琥珀のえさと水の器を見ると、どちらも空っぽで、水の器はからからに乾いていた。
「いつから・・・。」
星矢の心臓がずきりと痛んだ。
琥珀は申し訳なさそうな顔をして、風呂場から動かない。
そっとなぜてやると、毛は少し油っぽくべたべたしていた。
星矢だけではない。家族みんながいっぱいいっぱいで、しばらく誰も琥珀の散歩もえさやりもしていなかったに違いない。
水は水道の蛇口や風呂から飲んでいたのだろうか。
あんなに清潔好きでプライドの高い琥珀が、何日もトイレを我慢して、それでもどうしようもなくなって風呂場でしてしまったのだ。
糞の始末をして風呂場をシャワーで流しながら、星矢は琥珀の顔をまともに見ることができなかった。
「そうだ、シャワーを浴びよう、な。」
星矢は隅っこで震えている琥珀に暖かいシャワーをかけ、シャンプーで洗ってやった。
足の裏を見ると、赤くただれていて、琥珀はかゆがってしきりに足の裏をかんだ。
爪はのびきって、上の方に付いている狼爪も、丸く一周円を描いていた。
タオルでよく拭いてドライヤーをかけると、ようやくいつもの毛並みが戻ってきた。
えさ入れと水入れを洗って新しいドッグフードと水をたっぷり入れてやると、琥珀はがつがつ食べ、あっという間に水を飲み干した。
時計を見るともう練習は始まっている時間だったが、星矢は学校へは行かず私服に着替えて琥珀にハーネスとリードをつけた。
食器棚の引き出しから現金と琥珀の動物病院の診察券を取り出すと、星矢は家を出た。
初夏の日差しはまぶしく、木々の緑は生き生きと輝いていた。
星矢は自分がそれを新鮮に感じるのと同じぐらい、琥珀もそう感じているのだろうと思うと再び心が痛んだ。
琥珀は馬のギャロップのように軽快に歩いていた。時々星矢を見上げては、嬉しそうに口の端を上げて息を弾ませた。
いつもの散歩コースから外れて、広い車道を渡ってしばらく行ったところに、春に予防接種をし、夏にフィラリアの薬をもらいに行くかかりつけの動物病院があった。
昔からある、近所で評判の病院だ。年を取った院長先生が新人を何人も受け入れて、一人前にしてやることでも有名だった。
場所は知っていたが、いつも母が行くので実際に連れて行ったのは初めてだった。
ドアを開けると、ちりりん、と鈴の音がした。
消毒液と動物のにおいが入り交じった、動物病院特有のにおいがする。
待合室には誰もいない。琥珀は入り口で仁王立ちをして拒んでいたが、リードを何度も強く引っ張ると仕方なく入ってきた。
「すみません。」
声をかけても、誰も出てこない。
壁に貼ってある診療時間を見ると午後は三時からで、まだ十五分ほどあった。
星矢は椅子に座って待つことにした。
琥珀は星矢の足元でぶるぶる震えながらうずくまっていた。
しばらくすると、受付で「お待たせしました。」と、若い男性の声がした。
振り返ると、白衣を着た青年がこちらを見ていた。星矢はその顔にどこか見覚えがある気がした。




