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第1部 Chapter 1 <2>

 一週間後、稔が休みの月曜日に、保護シェルターのボランティア員が沢渡家に犬を連れてやってきた。

 わざわざ向こうから連れてきてくれるのは、受け入れ先がちゃんとした家かどうか確認する意味もあるのだった。

 おそらく無計画な多頭飼いや、心ない転売目的の業者でないかをチェックするためだが、直子は緊張して朝からせっせと家を掃除し、片づけた。

「こんにちは、おじゃまします。」

 石田です、と名乗った小柄で丸顔の女の人が、リードでつないだ犬を連れてにこにこ笑って玄関に立っていた。

 犬は彼女の傍らで、まっすぐ沢渡家の三人を見上げていた。

 星矢も犬を見返す。

 最初に見た時印象に残った琥珀色の瞳がじっと星矢に据えられると、星矢はわくわくした。ついに、うちで犬を飼うんだ!

「この犬はどういう経緯でそちらに引き取られたんですか。」

 稔は初めて見るその犬を観察しながら尋ねた。

 犬は家に上がってリードをはずされると、吠えたりうなったりすることもなく、静かに家のあちこちをかぎ回っている。大人しく扱いやすそうだ。

「三ヶ月ほど前、S県のコンビニの裏をうろうろしていたんです。

 山林の多い、あまり人の住んでいない地域でした。

 首輪はしていませんでした。

 年齢は獣医師の見立てでは、一才半から二才です。」

 石田さんは事務的にてきぱきと受け答えをした。

「うちに来た当初から人には慣れていて、散歩もすぐに覚えました。

 噛み癖も吠え癖もないので、もと飼い犬と思われますが、首輪も鑑札やマイクロチップもなく、避妊手術もされていませんでした。

 成犬でしたので、避妊手術はこちらで受けさせました。

 その費用も新しいご家族にご負担お願いしています。」

 保護団体から譲渡される犬や猫は、避妊・去勢手術を受けるのが義務になっている。

 無責任に子供を産ませて、新しい犠牲を増やさないためだ。

 子犬の場合は、新しい家族が獣医師と相談して時期を決めて避妊手術を受けさせることになっていたが、成犬の場合はすぐにも妊娠の可能性があるため、譲渡前に団体が避妊手術をしていた。

 その金額は少なくはなかったが、ペットショップで生体を買うよりは安く、こういうことにならお金を払うことに抵抗はない。

 直子はあらかじめ金額を聞いて用意していた封筒を差し出した。

 ありがとうございます、と事務的に受け取ると、石田さんはさらに説明を続けた。

「百パーセント室内飼いでお願いします。

 外に犬小屋を置いて、鎖でつないで飼うようなことはしないでください。

 特にこの子は脱走癖があるので、首輪には必ず鑑札と連絡先を縫いつけて置いてください。」

「脱走癖、というと・・・?」

 稔が少し警戒して眉をひそめた。

 石田さんは大きな瞳を稔に向けて、人に危害を加えるわけではないんですが、と前置きをしてから、

「つまり、時々一人で家を抜け出してしまうんです。

 うちの団体の預かりボランティアの家から何度か脱走しました。

 一晩たつと自分で戻ってきたので良かったですが、

 場所が変わって迷子になると大変なので、

 そこのところは気をつけてあげてください。」

 と言った。家族三人はなるほどと納得した。

 ここで、団体からのパンフレットを渡され、予防接種やフィラリアの薬、ノミやダニの除去薬、健康に関するこまかな説明を受けた。

「万が一、飼育できなくなった場合は、

 勝手に他の方に譲渡したりせずに、必ず当会にご連絡下さい。

 もちろん、そんなことはないとは思いますが・・・。」

 そこで、石田さんはちょっと値踏みするように三人を見つめた。

 

「ずいぶん厳しいもんだな、動物愛護団体っていうのは。」

 ボランティア員の石田さんが帰ると、さっきの細かい指示に辟易していた稔がこぼした。

 誓約書まで書かされ、もらったというよりは大切な預かりものという感じだった。

 小型犬でないのに室内飼いというのも驚いたが、狭い庭のどこに犬小屋を置こうと思っていたので、それはそれで都合が良かった。

 家族の一員になりたての犬、琥珀は、一通り家の中をかぎ回って点検し終わると、すっかりくつろいでソファの横にのんびり座っていた。

「とりあえず今日のところは、散歩はしないで家の中で静かにさせておきましょう。」

 直子はそう言って、星矢の部屋の一角に整えた琥珀のための場所に琥珀を誘導した。

 琥珀はひとしきり部屋の中をかぎ回った後、部屋の隅に用意した古毛布ではなく、ベッドの下に潜り込んでしまった。

「わあ、あそこでおしっことかされたら嫌だなぁ。」

 星矢は顔をしかめたが、

「さっき庭で両方ともしたから大丈夫よ。

 もしされても、掃除すればいいじゃない。

 初めての場所だから、怖がってるのよ。

 今日はとりあえずそっとしておいてあげましょう。」

 と直子に言われて、出て来る気配のない琥珀をそのままにして、星矢はしぶしぶ部屋のドアを閉めた。

 市役所が閉まる直前に稔が車を飛ばして鑑札をもらいに行き、琥珀のために用意した赤い首輪に直子がさっそくそれを縫いつけた。

「首輪をつけるのも明日でいいわね。晩ご飯は、星矢が置いてきて。」

 直子に言われて、星矢は新しい琥珀用のプラスチックの食器に封を開けたばかりのドッグフードを入れて、ベッドの下にそっと差し入れた。

 いつの間にか琥珀はベッドの外に置いてあった寝床用の毛布を引きずり込んでいた。

 ベッドの下で器用に毛布にくるまって、目だけ出してこちらを見ている。

 差し入れられた餌の器にもすぐには近づこうとせず、じっとしていた。

 警戒しているのかもしれない。

 星矢はドアを閉めた。

 誰もいなくなれば、安心して食べるかな。


 その日の夜遅く、電気を消した部屋にはカーテン越しに街灯と月明かりがわずかにさしこんでいた。

 ぐっすり眠っている星矢のベッドの下から、すっ、と白い腕が伸びた。

 五本の細い指が、探るように床を這う。

 やがて静かにゆっくりと、何かが這い出てきた。

 腰まで伸びた長い髪。

 白いなめらかな裸体は、若い女の姿だった。

 それは、そっと立ち上がり、星矢の部屋を見回す。

 やがて女はそっとカーテンを開け、ベランダに続く掃き出し窓のサッシも開けると、外を眺めた。

 家々に囲まれた狭い空には、煌々と満月が輝いていた。

 そのままベランダへ出ようとした女は少しためらった後、床に脱ぎ捨ててある星矢のTシャツとジーンズを身につけた。

 そして音もなくベランダの向こうへと消えていった。


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