第1部 Chapter 3 <9>
十月も下旬になると、ますます日が落ちるのは早くなった。
その日も、星矢が部活を終える頃には満月が煌々とあたりを照らしていた。
急いで学校から帰ると、琥珀の姿が見えなかった。
玄関のドアの鍵があけっぱなしだったので、どうやら一人で出かけたようだ。
まあ、それならそれでいいか、散歩の手間が省けるし。
何度か満月の夜を過ごして、星矢はもうあり得ない現実に慣れてしまっていた。先月は夜になって雨が降り出したら、ロフトでずっとゲームをしていたっけ。
だが、その夜はとうとう琥珀は家に戻ってこなかった。
朝になって、裏庭でくんくん鳴いているところを見つけたときには当然衣類は身につけていず、星矢のまだ新しいジーンズとパーカーは二度と戻ってこなかった。
次の満月の夜も琥珀は勝手に一人で出かけてしまった。
星矢はやきもきしながら眠いのを我慢して待っていた。
明け方近くにやっとベランダからこっそり帰ってきた琥珀を問いただすと、得意げに武勇伝を語り始めた。それは、十三才になったばかりの星矢には刺激の強すぎる話だった。
「・・・人間って、いつでも発情期だからわかりやすいわね。最初に星矢と一緒に居酒屋でおごってくれたおじさん、絶対私とやりたそうなのに遠慮してるみたいだったから、大丈夫よ、私もう避妊手術してるからって言ってあげたの。そしたら、目をまん丸くして声も出ないぐらいびっくりしてたわ。変なの。」
「どういうつもりだよ。そんなことすんなよ。」
真っ赤になって怒る星矢に、琥珀はあっけらかんと言い放った。
「だって、誰かを傷つけたり、悪いことをしている訳じゃないもの。おじさんも期待してたし、この間のお礼をしてあげたのよ。先月は他の人と・・・。」
「ストーカーされたらどうするんだよ。殺人事件だって起きてるんだぞ。」
そう言う星矢に琥珀は鼻で笑った。
「犬の私を、ストーカー?大丈夫、身元は絶対割れないから。」
「お、奥さんがいたらどうすんだよ。フリンじゃないか。浮気じゃないか。」
言い募る星矢に、琥珀はあはは、と笑う。
「そんなの、狐に化かされたのと一緒じゃない。ぜーんぜん、悪くないもん。」
星矢はもう何も言えなかった。
すると琥珀は星矢の首に腕を回し、顔をのぞきこんでそっとささやいた。
「ひょっとして、星矢も私と、したい?」
「や、やめろよ!」
星矢はぎょっとして琥珀を押しのけた。
「どうして?ああそうか、私が犬だって星矢は知ってるものね。」
「そ、そうじゃなくて。」
「私があのおじさんと寝ちゃったから?人の使ったお箸は気持ち悪くて使えない、みたいな。」
星矢は琥珀の口か自分の耳ををふさいでしまいたかった。
「うるさい、さっさと犬に戻っちまえ。」
顔を背けてぶっきらぼうにそう言う星矢に、琥珀はくすりと笑って、窓の外の満月を見つめた。
「星矢、わかってる?私は、あんたたちよりずっと早く歳を取るのよ。それに、この姿でいるのはほんの少しの間なの。人生を楽しむチャンスは、めいっぱい生かさなくちゃ。」
確かに、琥珀の「人生」はとても少なそうだ。
しかし、そんなことを思いやる余裕は、星矢には全くなかった。
同級生の女の子への興味もさほどわかないうちから月の光に照らし出された琥珀の白い裸体を何度も見せつけられて、星矢は自分の中のもやもやした欲望の正体がわからないまま混乱していた。
琥珀には時間がなくても、星矢には時間が必要だった。
なのに、琥珀は星矢のゆっくりした成長を待つ気は毛頭ないようだった。
それ以降も、満月の夜になると琥珀は一人で出歩いた。
そしていつの間にか、星矢の部屋のクローゼットの引き出しの一つを自分専用にしてしまった。
その中には、バッグだの靴だの服だの化粧品だの、男達からの貢ぎ物が増えていった。
琥珀はどんどんあか抜けて、服装も化粧も板に付いてきた。
長い髪はたいてい整えもせず垂らしたままだが、それがまた不思議な魅力になっていた。そんな琥珀に星矢はつい見とれてしまう。
日々の大半を犬の琥珀と過ごしている方が、平和で穏やかだった。
それでも星矢は、満月の夜を心密かに待ち望んでしまうのだった。




