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第1部 Chapter 3 <3>

 星矢は生唾を音を立てて飲み込むと、思い切って切り出してみた。

「あの、姉は最近この街に来て、前はけっこう山奥の方に住んでいたので、こういうところに慣れていないんです。

 お酒もはじめてで、心配なので、今日はやっぱり帰りま・・・」

「せん!帰りま、せん!ごめんねおじさん、この子生意気で。

 今日はぁ、初めてのお酒なので、おじさんにいろいろ教えてもらいます!」

 琥珀が上機嫌で星矢の背中をどん、と叩いた。

 星矢は琥珀をにらみつけたが、琥珀はにこにこしながらすでに運ばれてきたビールのジョッキを片手に掲げて、おじさんと乾杯していた。

 そして、一気にごくんとビールを飲み込むと、案の定思い切りむせて半分以上はき出してしまった。

「あららら、おねえちゃん、豪快だねえ。」

 店内の人々の注目が一気に集まり、おじさんが笑い、マスターが黙って台ふきんで汚れたテーブルを手際よく拭いた。

「ごめんなさーい。」

 琥珀は悪びれもせず謝って、

「そうか、ゆっくり飲めばいいのね。私、コップで上を向いて飲むの、慣れてないから・・・。」

 星矢はあわてて琥珀の膝をぎゅっとつねった。

「いたぁい、何すんのよ!」

 琥珀は星矢に食ってかかったが、おじさんは琥珀の奇妙な言動に気づいた様子もなく、ははは、と笑っていた。

「ここのお店ね、変わった名前でしょう。抱く瓶って書いて、だちびん、って読むんだよ。沖縄の言葉なんだよね、マスター?」

 おじさんはそう言って、マスターを見た。

 マスターははにかむように笑って頷き、それ以上何も言わず、配膳や料理を手際よくこなしていく。

 店は、彼一人で切り盛りしているように見えた。

 客が二、三人抜ければ、じきにまた新しい客が入ってくる。

 狭いせいか、大人数のグループは入ってこない。

 一人でふらっと入ってくる客も少なくなかった。

 マスターは黙々と、注文をこなしたり、客のはけたテーブルを片づけたりしていた。

 星矢の心配をよそに、琥珀はその後も怪しまれることなく、場になじんでいるように見えた。

 時計はとうに十一時を過ぎていた。おじさんがトイレに立ったすきに、星矢は小声で琥珀を説得した。

「お父さんが帰ってくる前には、家に帰ってないと。

 どうすんの、琥珀、夜が明けるまでは人間の姿のままなんでしょう。

 お父さんに見つかる前に、部屋に戻ってなくっちゃ。」

 すでにビールの中ジョッキを空け、おじさんにすすめられるまま日本酒まで口にして早いピッチで飲んでいる琥珀は、目をとろんとさせながら、

「星矢は子供なんだから、先に帰れば?」

 と言って笑った。

「どっちが子供なんだよ。見た目は大人でも、琥珀はまだせいぜい二歳だろう?

 こんなところに一人でおいておけないよ。何かあったらどうすんの。

 先に帰るわけにはいかないよ。」

 星矢はいらいらしながら言い募った。

 琥珀は、う~ん、と鼻にしわを寄せて、トイレから戻ってきたおじさんに、

「この子明日部活で早いから、今日は帰るね。どうもごちそうさま。」

 と言った。

「そうかい、そりゃ残念だな。またおいで、今度はおねえちゃん一人で。」

 最後は琥珀の耳元になれなれしく口を近づけてささやくように言うと、おじさんはにらんでいる星矢にははは、と笑って気前よく三人分の会計をして、一緒に外に出た。

「おいおい、ふらついてるじゃない。家はどこ、送ってあげようか。」

 おじさんはなかなか琥珀をあきらめられないらしく、自分もけっこう千鳥足なのに星矢と琥珀についてこようとする。

「いえ、けっこうです。ぼくがちゃんとついてますから。どうもありがとうございました。」

 星矢はそう言って、琥珀の腕をつかむと思い切り引っ張っておじさんから逃げるように早足で歩き出した。

「タクシー呼んであげようか。おじさん、ついていったりしないから・・・。」

「タクシー?タクシーって、何?」

 身を乗り出す琥珀にもはや年上の女性という遠慮はみじんも感じず、星矢は夢中で琥珀を引っ張った。いっそのことリードをつけてやりたい。

「もう、星矢ったら、わがままなんだからぁ。おじさん、またね!ありがとね!」

 どっちがわがままなんだ、と星矢はあきれたが、とりあえず琥珀が大人しく星矢に従って歩き出したのでほっとした。

 繁華街を抜け、大通りをわたって人通りの少ないところに来ると、琥珀は空を見上げていきなり声を張り上げて遠吠えをした。

 その声があまりに犬に近くリアルだったので、星矢は心臓が飛び上がった。

「こ、琥珀!人に聞かれたらどうするんだよ!」

「大丈夫、その辺の野良犬が吠えたと思うわよ。」

「いまどきこの辺には野良犬なんていないよ。飼い犬だって、遠吠えなんかしない小型犬ばっかりなんだから。」

「野良犬はいないの?どうして?どこへ行ったの?」

 赤い顔をして幼い子供のような無垢な目で尋ねる琥珀に、星矢は一瞬言葉に詰まった。

 星矢が知る限り、前に住んでいた町でもこの町でも、野良猫は見かけるが野良犬は今まで一度も見たことがなかった。

 いつか稔と直子が、昔はそのへんにいくらでも野良犬や捨てられた子犬がいたものだと話してくれたのを思い出す。

 どうして今はいないの、と尋ねた星矢に、今は捨てたりせずにいらなくなったら保健所へ連れて行って安楽死させるのだと聞かされて、星矢は少なからずショックを受けた。

 捨てるという行為さえ信じられないのに、殺されるとわかっていて保健所へ連れて行く飼い主がいるとは、星矢には信じられなかった。

 そして、琥珀をもらい受けるきっかけになった動物保護団体のチラシの殺処分数が頭に浮かんだ。

「琥珀はもううちの大事な一人娘なんだから、行儀良くして、遠吠えなんかしないんだよ。」

 星矢は琥珀から目をそらして、ぶっきらぼうにそう言った。

 琥珀は、酒臭い息でうふん、と鼻を鳴らして、星矢の肩に両腕を回した。

「星矢、大好きだよ。」

 とがったあごが肩にくっと食い込み、なま暖かい息がTシャツの襟元から吹き込むと、星矢は体中がぞくぞくっと震え、みぞおちの下が痛いほどしびれるのを感じた。

「ずっとずっと、一緒だからね。」

 琥珀の甘えた声に、くらくらした。背中にぴったりくっついた琥珀の胸のふくらみがはっきりとわかった。

 犬の琥珀はいいけれど、人間の琥珀は星矢にはまだ手に負えない。

 守ってやらなければと思う一方で、戸惑いとかすかな憧れに胸がうずく。


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