第1部 Chapter 1 <1>
犬と少年の物語です。少しずつ更新していきますので、気長に楽しんで読んでいただけたら幸いです。
桜のつぼみが八分がたほころんだ三月末の公園は、春休みの日曜日で家族連れやカップルでにぎわっていた。
日差しは燦々と降り注ぎ、今年も入学式前に桜は満開になるだろう。
広々とした芝生の向こうに雑木林があり、その手前に「犬猫譲渡会会場」と書かれた手書きの大きな立て看板があった。
小学校を卒業したての星矢と母親の直子は、芝生を突っ切って急ぎ足で看板めがけて歩いた。
受付に住所と名前を書くと、その向こうにあるいくつもの銀色のケージを二人はさっそく見に行った。
向かって左側には猫、右側には犬が、一匹ずつ入れられている。犬と猫、合わせて十五匹ほどだ。
ペットショップと違うのは、チワワや柴犬、ミニチュアシュナウザーなど名前のある純血種でないこと、子犬や子猫でなく大人の犬猫が多いこと、そして一番の違いはケージに値札が貼られていないことだった。
一人息子の星矢が小学校を卒業する少し前に、沢渡家の三人はこの町に引っ越してきた。
母の直子はパートで看護師をしていて、星矢が高学年になってからは夜勤もあるフルタイム勤務になった。
それでせっせと稼いで念願の一戸建てを手に入れたのだが、それは直子のたっての希望だった。
飲食店関係の会社勤めの父の稔は、毎日朝早くから夜遅くまで土日祝日も勤務であまり家にはいなかったし、ただでさえ家の中がぐちゃぐちゃなのにこれ以上広いところへ引っ越してどうするんだ、と渋い顔をしたが、直子は結婚してから庭付きの一戸建てに住むのがずっと自分の夢だったと言い張った。
星矢は、引っ越しは別にかまわなかったが、慣れ親しんだ団地や友達と離れるのはあまり嬉しくなかった。直子は収納がたくさんある家を探すからと稔を、同じ市内に新しい家を見つけるからと星矢を説得し、張り切って物件を探し始めた。
そしてたどりついたのは、こぢんまりした2LDKの新築一戸建てだった。
星矢が不服だったのは、確かに同じ市内だがとても学校に通える距離ではなく、友達と行き来するにも不便な、かなり奥まった地域だったことだ。 当然、学区が違うので友達とは別の中学校になる。
稔はもともと車通勤だったから駅から離れても支障はなかったが、何より引っ越しそのものが面倒だった。
だが、環境は家族全員が気に入った。近くにほとんど手つかずの自然をそのままにした広い公園があり、家の回りには幹線道路もなく静かだったし、遊歩道があちこちに整備されていて緑が多く、家の価格も新築にしては手ごろだった。
掘り込みガレージの上の南向きの小さい庭に面した日当たりのいいリビングは、たっぷり十二畳もあって広々としていた。
続きのダイニングキッチンは直子の憧れの白いタイル貼りのシステムキッチンで、ビルトインの食器洗浄機も整った申し分のないものだった。
二階の一部屋はたっぷりしたウォークインクロゼットがあり、もう一部屋にはロフトがついていた。
稔も納戸付きの広いガレージをすっかり気に入った。
庭が少し狭いのが難点だったが、それを除けば三人家族には申し分のない家だった。
引っ越しは稔と直子の仕事が暇な二月に決行することになった。
それで星矢は、小学校卒業まで朝は車通勤の稔に送ってもらい、帰りはバスを乗り継いで帰るという不自由な生活を強いられることになった。
ちょっと約束とは違う気がしたが、庭のある独立した一軒家に住むのもロフト付きの広い洋間を自分の部屋にもらえるのも嬉しかった。
ところが、バイタリティあふれる直子の希望は一戸建てにとどまらなかった。
引っ越して荷物が一通り片づくと、待ちかねたように「犬を飼いたい。」と言い出したのだ。
直子のエネルギーにはいつも結局押し切られる穏やかで大人しい稔は、一応、散歩はどうするんだ、とか病気になったら誰が世話をするんだ、と常識的な反論をしたが、全て直子の「どうにかするのよ。」という強気の一言で押し切られた。
星矢はこのときの直子の一言に含まれる「の」が、「わ」でないことにかすかに不安を感じた。
どうにかするわよ、なら、直子がどうにかするという意味だが、どうにかするのよ、と言う以上は、当然稔や星矢にも負担を期待しているということだ。
それでも、今までずっと団地住まいで動物を飼ったことのない星矢は、犬を飼うということに抗しがたい魅力を感じて、むしろ直子に賛成する側に立った。
そして、いくつかペットショップを回ったが、星矢はガラスの向こうで頼りなげな子犬や子猫が一日中狭いケージの中で陳列されている光景を見るのがだんだん嫌になってきた。
犬も猫も、まだ小学生の星矢にとって信じられない値段だった。それを見ていると、数字の向こうにある可愛い子犬や子猫が星矢の手の届かない高額な「物」に見えてくる。
自分が赤ちゃんの時どこかで売られていて、それを両親が選んで買ったとしたら、と星矢は考えてしまった。
あんなに高いお金を払ったのに期待はずれだったわとか、保証期間内だから取り替えてこようかとか、そんな風に両親が話すのを想像して、何となく嫌な気持ちになった。
だからそのうちペットショップに行っても、えさの容器や首輪やリードなどを見るだけになった。
直子も何だかピンと来ないわねえ、といつも顔をしかめていた。
そんなある日、いつものように買い物ついでにホームセンターのペットコーナーを見た帰り、階段の横の掲示板に「犬猫譲渡会開催」の張り紙を見つけた。
「日本では毎年三〇万匹以上の犬や猫が保健所に収容され、殺処分されています。」
という最初の一行が目に飛び込んできた。
その数字にはぴんと来ないものの、ペットショップには飽き飽きしていた星矢は、少し興味を持った。
それは、保護シェルターという、保健所に連れてこられて殺処分を待つ犬や猫を引き出して、人慣れさせたり基本的なしつけをしたりして、一般の人々に譲渡する動物愛護団体が主催していた。
立ち止まった星矢に気づいた直子は、一緒に綴じられていた連絡先のメモを一枚破り取って、バッグにしまった。
「こういうところからもらってくるのもいいわね。」
そして春休みに入ってすぐの穏やかに晴れた日曜日の朝、保護シェルターからやってきた犬や猫たちのいるここへ、星矢と直子は足を運んだのだった。
何人かの希望者に混じって、二人はケージの中の犬たちを見て回った。
顔としっぽだけ毛がふさふさしたのや、鼻先が真っ黒なのや、あちこちにしみのような斑があるのや、ペットショップと違ってどの犬も一匹ずつ姿形が違って、それぞれ個性的だ。大きさも年齢もいろいろだった。
「まあ、どの子もみんな大人しいのね。」
直子はケージを見回りながら、感心したように言った。
そして、星矢はふとある視線を感じた。
それは、くすんだ枯葉のような暗い茶色の、耳がピンと立った大きめの中型犬だった。
瞳が金色に輝いている。
その犬はきちんと座ったままびくとも動かずに、じっと星矢を見つめていた。
ケージに貼られた小さいホワイトボードには、メス一~二才、と書かれてあった。
星矢は引き寄せられるようにその犬のケージの前にしゃがんだ。
ケージのすきまからそっと人差し指を伸ばして、おそるおそる前足の先に触れてみた。
すると、その犬が濃い小豆色の鼻先を星矢の人差し指にそっとつけたのだった。
(あいさつをしてくれてるのかな。)
初めての暖かく湿った感触に、星矢はどきどきした。
「あら、かわいいわね。」
気がつくと、直子が後ろにいた。直子もしゃがんで、その犬をじっと観察した。
「すてきな目の色。琥珀色だわね。」
「じゃあ、名前は琥珀がいいな。」
星矢が言うと、犬はとがった耳をびくっとふるわせた。