疲労感
「あいうえおの謎を知りたい」
「そう言えば僕達、普通にあいうえおを使っていますが……」
「ああそうだ。これまで何気なく使ってきたあいうえおだが」
我々はどうしてあおいうえおについて深く考えなかったのだろうかと、二人の男が喫茶店で話していた。
「こうして考えるだけでも奥が深い」
「何と言っても平仮名のあいうえおだけでここまでの謎が深く染み込んでいますからね」
「そうだな。注文を待つまでの退屈しのぎに考えるのも丁度いい」
「それにしても遅いですね。もう注文してから10分近く経過していますが」
二人が頼んだのは何の変哲もない普通のランチセットだ。これについて深く問う必要は皆無だ。なぜなら、今重要なのはあいうえおの謎だ。これを解明するまで恐らく、注文した品が届いた所で話題は尽きない。もしかすると店員に睨まれるぐらいの長居をする可能性だって否定は出来ないのだ。
「俺達は結局、あいうえおについて何も分かってはいない」
「それはそうですが、そんなことを言えば迷宮入りですよ。なんとしてでも注文が届くまでに解決しましょう。この問題を」
「そう言うのは簡単だが、果たしてどうやって解決の糸口を探すんだ?」
先輩の男が疑問に感じるのも無理はない。これまであいうえおについて深く吟味した経験なんて皆無に等しい。日常生活であれだけ使っている平仮名なのに、一度だって追及しなかった。それについて深く反省しつつも、先輩は後輩に対して問うていた。
「そうだ。いいことを思いつきました」
「言ってみろ。恥ずかしがることはない」
「ええもちろんですとも。発言に対して恥ずかしいなどとは思いません」
「それが自分の発言なら尚更だな」
「はい。まずは疑問を解決するために改めて紙に書いてみてはいかがでしょう?」
後輩の男はそう言うと、ポケットの中にしまっていた手帳を取り出して1枚だけ紙を破って、その紙をテーブルの上に置いていた。その紙の横にはボールペンも一緒に置かれている。
「成程、考えたな」
「そうですね。会社のプロジェクトでもあった原点回帰を参考にしてみました」
「原点回帰か……それは全ての職業に対してあてはまる魔法のキーワードだな」
心から感心していた。後輩の考え方を。やはり年齢差が離れていても大人は大人だ。
「はい。だから、あいうえおと書いてみましょう」
「立案者であるお前が先に書いてくれ」
「分かりました。では書いてみます」
「ゆっくりでいいからな。緊張せずに普通に書いてくれよ」
「焦りませんよ。焦ったら負けですからね」
そうだ。焦ってはいけない。どんな時に対しても堂々といられるのは大人の世界では絶対に必要な才能だ。焦って仕事をしても効率など上がらず、たとえ結果的に仕事が早く終わっても、それは最初だけだ。後から余計な癖がついて後悔したのでは時間の無駄である。
「お前の書き方をとくと見せてもらおう」
「そうは言っても過度なプレッシャーを与えないでくださいね。ただでさえ連勤続きで寝不足の身ですから、どうなるか分かりませんよ」
「知ってるさ。寝不足の男は爆弾を抱えているってことぐらい」
後輩は淡々とあいうえおの五文字を書いてみせた。とびっきり上手い字とは言えないが、下手な字とも言えない。ありきたりな字だ。しかし、寝不足の中で普通の字を書けるのはある意味では才能かもしれない。普通ならば歪んだ字になってミミズの小便かと勘違いするほどの小さな字になりがちなのに。
「書けました」
「結構、結構。それで感想は?」
「はい。特にありませんね」
「まあそうだろうな……常日頃からあいうえおなんざ気にせず生きてきたし」
どうやら先輩と後輩は同じ意見のようだ。
「先輩はどう思いますか?」
「どう思うって何をだ?」
「決まってるじゃないですか。その席から見たあいうえおについての感想ですよ」
「ああ、そういう意味で言ったのか。それなら答えはお前と全く同じだ」
「感想は特に無しですか。はあ……なんだか疲れてきました」
「そうだろうな。俺達ずっと何も食わず飲まずで紙に書かれた文字を見てるんだからな」
「まったくその通りですよ」
疲労感を感じた瞬間から、人間は同時に喜びを感じる。その喜びを感じれただけで、今回は良しとしよう。二人はそう決意したのだった。