内緒話でもしましょうか
「お願いです、あの人と婚約破棄をしてください!」
豊かな茶色の髪、くりくりとした大きな瞳。小柄な少女が体を震わせながら言う様は、まるで小動物に吠えかかられているようだった。
放課後一人で中庭に来てください、と言われ、大人しく来てやったら。まさかこんなことを言われるとは思いもしなかったわ。
呆れて深いため息が漏れる。いくら学園内では身分が関係ないとはいえ、流石に失礼だ。王太子の婚約者である、公爵令嬢の私に、平民の少女がその婚約を破棄しろと言ってくるなんて。
この学園に平民が入学できたということは勉強はできるのでしょうけど、頭は残念なのかもしれないわね。
「一応訊いておきますが、それは殿下のご意志ですか?」
「も、もちろんです! わたしとウィル様は愛し合っていますから!」
しっかりと目を見て言ってくる。それだけは評価できるだろう。
「では、殿下が直接『愛している』と仰ったことはありますか?」
「……あります!」
「嘘をつきましたわね、あなた」
即座に否定すれば、その大きな目は更に大きく見開かれる。「なんでそんなことがわかるんですか!」と、嘘をついたと認めるような発言に、ますます呆れ果ててしまった。
なぜわかったのか、それは簡単なことだ。
「だって有り得ませんもの。殿下はご自分の立場をよくご理解されていますわ。たとえ愛していたとしても、言葉にされることはありません」
この少女を愛しているのなら、わざわざ危険に晒すようなことを殿下がなさるわけがない。
「で、でもウィル様は、わたしのことを愛して。ウィル様だって、わたしと結婚したほうが幸せに――」
「あなた、本当に呆れるほどの大馬鹿ですわね。本気でそう言っているのなら、こちらとしても対応を変えなくてはいけないのですが」
貴族でもない少女が、今から王妃教育を受けたって無駄だろう。私は、三つのときから努力を続けてきた。殿下に相応しい女性となるために。王妃に相応しい女性となるために。
この少女――リリアーヌ嬢、だったかしら。リリアーヌ嬢は、王太子という立場のことを軽く考えすぎている。
「ほん」
「きだとは言わせませんわ。いくらどうしようもない馬鹿とはいっても、殿下が愛している少女。ことを荒立てたくはありませんもの」
先ほどから私に言葉を遮られ、リリアーヌ嬢は涙目になっていた。とても庇護欲を掻き立てられる姿で、男性だったら惹かれても仕方がないだろう。
王太子であっても、ウィルヘルム殿下は一人の男性。心だけであったら、どの少女を愛するのも自由だ。流石に平民を後宮に上げることはできないけれど、愛するだけならいい。殿下はそこをよく理解されている。
ゆえに、殿下は私を選ぶ。
「リリアーヌ嬢」
名を呼べば、涙目ながらもまた真っ直ぐと私を見てくる。
「私は、殿下があなたを愛しているということを否定しているのではありません」
「じゃあ!」
「話は最後まで聞きなさいな」
喜色をあらわにするせっかちな彼女に、苦笑する。
馬鹿だとは思うが、私はこの方が嫌いではない。素直さ、純粋さは、むしろ好ましく思う。
「けれど、私たちには愛など関係がないのですわ」
「……え?」
ぽかんとするリリアーヌ嬢は、意味がわかっていない様子だった。それでどうしてこの学園に入学できたのか、少々理解に苦しんでしまう。
ついふふふっと笑いながら、一つ提案をする。
「内緒話でもしましょうか。聞いていただけます?」
誰にも言わず、墓まで持っていくはずだった気持ち。――殿下のためなら、この際仕方ない。
「私、殿下ではない方を愛していますの」
「……ええっ!?」
「びっくりしたでしょう?」
「は、はい、とても……」
「もうずっと前から。きっと、物心がついたときから好きでしたわ」
この気持ちは、私にとって当たり前のものすぎて。いつから好きだったかなんて、自分でもわからなかった。
そんな、と。リリアーヌ嬢は、辛そうな顔で小さくつぶやく。
他人のことを、自分のことのように思う。それは彼女の美点でもあり、また短所でもあるのだろう。
「ですが私は、殿下の婚約者。幼きころから、私の結婚相手はすでに決まっていました。それに不満などあるわけもありませんが、一人の女として言わせていただくのなら、やはり少々寂しくもあります」
「エレオノール様……そんな、そんなの駄目です。エレオノール様はそれでいいんですか!?」
ああ本当に、この方は純粋なんだわ。
「いい悪いの問題ではありませんが……そうですね、いい、ですわ。私の使命は、立派な王妃となること。それを見守ってもらうだけでいいのです。たとえ話せなくても、会えなくても、王妃となれば私の様子は知ってもらえます。病にかかれば心配してもらえますし……お子を産めば、喜んでもらえる。それだけで、私は幸せなのです」
そう言って笑えば、リリアーヌ嬢は泣き出してしまった。
……優しすぎるというのも、残酷だ。
つられて私の目にもうっすらと涙が張る。けれど、私の気持ちはもう決まっている。愛なんてそんなもの、私には関係がないのだ。
「これは本来、誰にも話すつもりのなかったことです。秘密にしていただけますか?」
「もちろんです!」
泣きじゃくりながら、リリアーヌ嬢は何度もうなずいた。
「……殿下は、あなたを愛しています。愛称を呼ぶことを許されたというのは、そういうことです。言葉にされなくて、不安だったでしょう。自信を持ってくださいな。ただし、余計なことはしないでください。殿下に、あなたを愛することくらいは許してさしあげて」
「……すみませんでした」
深く、リリアーヌ嬢は頭を下げる。自分がしたことがどれだけ失礼なことだったのか、一応自覚はあったらしい。
そして顔を上げた彼女は、おそるおそる口を開いた。彼女の涙はまだ、止まっていなかった。
「あの、わたし、噂を信じてしまって。エレオノール様がとんでもない悪女だって聞いて、一刻も早くウィル様を助けてあげなきゃって……だから、エレオノール様、気をつけてください。エレオノール様を悪く思う人がいるのかもしれません」
「かも、ではなく、実際にそうなのでしょうね。ですが、ご忠告ありがとうございます」
驚いた顔をしたリリアーヌ嬢に「それでは」と微笑みかけて、さっさと場を去る。
しばらく無言で歩くと、隣に誰かが並んだ。見なくてもわかる、私の従者。
「やっぱり見てたのね。一人で行くと言ったはずだけれど」
「俺が本当に一人で行かせるわけないでしょう」
「……そうね」
不遜な態度を取る男に、笑みを浮かべる。
先ほどの話を聞かれていたのなら、この察しのいい男のことだ、わかってしまっただろう。私が、エレオノールが、彼のことを愛しているのだと。
けれど彼は何も訊かないし、私も何も言わない。
私たちはそれでよかった。
「ディー、後で一緒にお茶を飲まない?」
「……いいですよ」
「あら珍しい、あっさりうなずいてくれるのね」
「エレオノール様の仰せのままに、ですよ」
「まあ。いつもあんなに失礼な態度を取って、私のお願いなんて聞いてくれないのに?」
そんな会話をしながら、迎えの馬車に乗り込む。
本来なら、従者と同じ馬車に乗るなどあってはならないのだろう。けれど私がわがままを言って、一緒に乗ってもらっている。お父様にも殿下にも許可は取ってあった。
「ねえディー、私、あなたのこと大事な従者だと思ってるわ」
「それは光栄なことで」
「だからね、これからも何も言わず、傍にいて。私も何も言わないから」
「わがままですね」
「そうね、わがままよ」
互いに一番大切な存在で、互いがそれをわかっていて、互いにそれを口に出せない。
それでも十分、私たちは幸せだった。
数日後、殿下とお茶を飲みながらリリアーヌ嬢のことを切り出した。話を聞いた殿下は、はあっと深くため息をつくと、少し笑った。
「すまなかったな、エレオノール」
「いいえ。可愛らしい方でしたわ。この私のために泣いてくださったのですよ?」
内緒話のことは、もちろん言っていない。
だから殿下は、私の言葉にぎょっとした。
「何を言ったんだ?」
「理由は詮索しないでくださいませ」
「……そうだな、そうしよう」
にっこりと笑う私に何かを感じたのだろう、殿下はあっさりと引いた。
「ですが殿下、今回のことで、一つだけ申しておきたいことがあるのです」
「なんだ」
「――ご自分が愛する方くらい、ご自分で守ってください。大事に大事にするだけが、愛するということではありませんわ」
「……厳しいな」
「当然ですわ」
「ああ。本当にすまなかった」
苦笑いする殿下から、つーんと顔を背ける。失礼はなはだしい態度だが、身分的にも状況的にも許されるだろう。
今回の件は、リリアーヌ嬢に何も説明をしていなかった殿下にも落ち度がある。身分を越えて結婚できるほど愛されている、とリリアーヌ嬢に思わせてしまったのも。
「私、殿下のことを愛してはおりませんが、気の合う友人だとは思っているのです。がっかりさせないでくださいな」
「はは、それはありがたいことだ。私もあなたを愛してはいないが、大事な友人だと思っているよ」
私と殿下はそんな関係だった。
その後、変わらずに過ごして、学園を卒業し。
私は王妃となった。