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暴力の世界  作者: tetsuya
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8 キリシタンナイコタン

たえは、六郎を殺したあとになって、どれほど自分が男たちを憎んでいたか知った。自分がどれだけ傷ついていたか、どれだけ苦しんでいたか、どれだけ愛されたいと願い、自由に憧れていたか、抑圧されて自分でも気づかずにいたありとあらゆる感情が、たえの胸にいちどきに蘇って爆発した。彼女は生まれ変わったのだ。だが、求めた場所に愛はあるのかどうか。それは誰にもわからない。

 海から陸にむかって、強い風が吹き付けてくる。その風に乗って、いく羽ものカモメが空を舞っている。海の色も、空の色も、もう冬のものではない。まぶしいほどに明るく青く、きらきらと輝いている。砂浜には、這い出した小さな虫達を狙って、烏や海雀が舞い降りている。二人が歩いていっても、二尺ほど離れるだけで、飛び去りはしない。

 たえの足取りは、踊りだそうとしているように軽い。久蔵は旅の終わりについて考えていた。遅れ勝ちな久蔵を振り返って、たえは笑顔で手を振る。手を振り返して、久蔵は歩を速める。やがて、集落らしきものが見えてきた。たえが嬉しそうな声をあげて駆け出す。

「おい、あまり走るな。転ぶぞ」

 そして、見えない壁にぶちあたったかのように突然、たえの足が止まる。

「どうした」

 追いついて、そう声をかけたときには、もう久蔵にも見えていた。

 その集落、キリシタンナイコタンは、黒く焼け焦げた廃墟であった。


 いっときの火災で、村が瞬く間に焼け落ちた、といった様子ではなかった。焼けていない家も三割ほどある。何かの理由があって、一軒ずつ家を焼いていったのだと思えた。

 焼け跡と、残っている家を合わせて、三十戸ほど。残っているものも茅葺の、小屋と呼びたくなるような粗末なもので、板張りの建物は一軒もない。焼け焦げた家もそうでない家屋にも辻にも砂が押し寄せ、村は大きな砂の波に、ゆっくりと飲み込まれていくところのようだった。

「誰もいない」

 たえが小さくつぶやいた。赤児の泣く声も、子供の遊ぶ声も、諍う夫婦の声も、犬や鶏の鳴く声も、砧を打つ音も、機を織る音も、何も聞こえない。ただ、風の音と波の音が通り過ぎていくだけ。

 だが、足跡があった。一組だけ。不確かな足取りは、老人のもののように思える。足跡が向かう先を見やると、今しも、天秤棒に水桶を担いだ痩せこけた老爺が、ゆっくりゆっくりと村に戻ってくるところだ。

「手を貸そう」

 歩み寄って、そう声をかけた。

 老人は、そう言われて初めて、二人の存在に気づいたようだった。久蔵を見、ついでその後ろにいるたえの顔を見て、何かに打たれたような表情を見せた。

「私は、千軒岳のキリシタン、ひさの娘、たえです。父を探してここまで参りました」

 老人は苦しげな貌になった。

「やはりそうか。確かに、であんじぇりす様のおもかげがある。だが、少しばかり遅すぎたな」

「この村に、何が起こったのだ。ここに住んでいた者たちは、どこへ消えたのだ」

 久蔵が口を挟むと、老人は天秤棒を下ろし、うずくまった。

「労咳だよ。みんな、伝染るのを恐れて散り散りになった。残ったのは、すでに病に憑かれた者たちだ。子供はすぐに死んだ。大人もだんだん、やせ衰えて死んでいった。ここは、であんじぇりす様が建てた村だ。蝦夷地ばかりか日本中から、宗門改めの目を逃れたきりしたんが落ち延びてきたのだがな、今ではこのありさまだ。儂とであんじぇりす様の他にはもう誰もおらん。であんじぇりす様とて、いつまで持つかわからん」

「その人はどこにいる」

「会うのか。労咳が伝染るぞ。この村におるだけでも伝染るのかもしれん」

「私はその人の娘です。そうなのでしょう」

 老人はなぜか、悲しそうな目でたえを見つめた。やがて肩を落とし、小さくうなずくと、二人をある小屋に案内した。

 

 土間に筵を敷いただけの、床のない小屋だった。窓も、ただ茅の壁を切り欠いただけの穴でしかない。そこから斜めに射す光は小屋の中を暖めず明るくもさせず、ただ薄暗がりを白っぽく切り取って、その中に塵が舞う様を照らし出しているだけだった。

 湿った土の臭いの中に、病の臭いとしか言いようのない、人をいたたまれなくさせる気配がいりまじっていた。異人は重ねた筵の上に身動きもせず横たわって、苦しげな寝息をたてている。

 髪は白い。げっそりと頬がこけ、身体のあらゆる場所から肉が落ち、骨格が浮き出していた。肌は紙を貼り付けたように薄くもろく見えた。

 老人が枕元にいざり寄って肩に手をおき、何事かをささやきかけた。

 湿ったしわぶきの声と共に、異人、であんじぇりすは目を覚ました。

 老人が、たえに向かって手招きをする。たえは異人の枕頭に座った。たえの顔を見分けるや、異人の顔色が変わった。ほとんど恐怖と言っていい表情だった。

「許してくれ」

 たえに向かって放った最初の言葉が、それだった。

「仕方がなかったのだ。あなたを忘れたわけではない。ただ病のために動くことができなかったのだ」

 実際には、このように淀みなく喋ったわけではない。一語発するごとに咳の発作に襲われ、何度も筵のうえでのたうち、血のかたまりを吐いて、ようやっと言い終えたのだった。

「であんじぇりす様、あまり喋られては……」

 しかし、異人はやめなかった。

 ――禁教令のあと、ぱあどれが捕縛され、拷問にあって死んだ。あの時私は、行くところも帰るところも失くし、役人に見つかることに怯えながら、あの真っ暗な坑道の奥で、一人で閉じこもっていることしかできなかった。何もかもに耐え切れなくなって、私はあなたにすがった。私は嵐の海に投げ出されて溺れているも同然だった。それが罪だということにさえ気づいていなかった。許してくれ、私はあのとき十五歳になったばかりのいるまんで、ほんの子供だったのだ。

 長い長い時間をかけて、何度も血を吐きながら、異人はそれだけのことを言った。

「これ以上はもう……」

 老人が異人の肩を押さえ、寝床におしつけ、二人を振り返って言った。

 ずっと後ろで見ていた久蔵は、異人に歩み寄り、老人を押しのけて、言った。

「砂金はどこだ」

「久蔵」

「こいつはおまえが抱いた女じゃない。その娘だ。砂金は、おまえの娘が生きていくために入用なものだ。おまえの都合は知らん。だが、勝手に死ぬな。砂金の隠し場所を――

 ぱしん、と久蔵の頬が鳴った。

 目の前にたえが立っていた。平手で顔を打たれたのだとわかった。たえは静かに泣いていた。

「この人を悪く言うな。この人は私の父親だ」

 たのむ、出て行ってくれ。

 そのあと、涙声でそう言われた。


 結局、その日のうちにであんじぇりすは死んだ。村のはずれに、殆ど砂に埋もれた墓場があって、きしりたん式の卒塔婆がいくつも、倒れそうになりながら並んでいた。

 であんじぇりすの名を刻んだ墓標が、すでにあった。

 そこの土を掘っていると、くわの先が何か固いものにぶつかった。

 棺だった。

 開けてみると、皮袋がひとつ収められていた。であんじぇりすが今際のきわに言ったとおり、その中に、砂金はあった。

「駄目だな」

 ぽつりと、たえが呟いた。「私は、涙もろくなってしまった」

 西日を受けて微笑むように砂金は輝いていた。砂金の詰まった皮袋を抱きしめて、たえは言った。

「こんなものが欲しいわけじゃなかった。ただ、娘だと認めて欲しかった。謝って欲しかったわけでも、一緒に暮らしたかったわけでもない、ただ、それだけでよかった。それだけで、よかったのに……」

 久蔵には、言うべき言葉がなかった。

 黙ってたえを抱き寄せ、胸にその顔を埋めさせた。涙は、いつまでも久蔵の胸を濡らし続けた。


キリシタンナイコタンという名の集落は、確かに実在した。ただ、切支丹門徒に関する伝承も遺物も発見されていない。ただ、金掘りにまぎれて蝦夷地に潜入し、アイヌや採鉱者たちに宗門を布教しようとした宣教師の記録が残っている。その名がジェロラモ・デ・アンジェリスであるが、本編のいるまん(助修士)デアンジェリスは架空の人物であり、何の関係もない。

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