3 獣たち
金掘りたちから助けた女は、久蔵に心を開かなかった。胸に宿した秘密も、なにひとつ明かしはしなかった。身体の傷よりも癒しがたいものが、この女の心の中にはあるのだ。久蔵はそれだけを察した。そして、予期していたことが、予期していたよりもずっと早く起きる……
頬に風の流れを感じて、久蔵は目覚めた。煙出しと出入り口をかねた穴から、雪が吹き込んでいる。枝を編んで扉のかわりにしていたものが倒れて、息を潜めてうずくまっているような、夜明け前の暗い森が見えている。
女の姿がなかった。穴から這い出してみた。小さな不規則な足跡が木々の間を縫って続いていた。
しんしんと冷え込んでいた。山頂から吹き降ろす風が、あちこちで渦を巻いて、地表の雪を巻きあげている。
足跡が消えていく。
立ち止まり、目を凝らし、周囲を見渡した。それが何か理解するよりも前に、首筋の毛が逆立った。
まばらな木々の間、ごく低い場所に、点々と青い光が浮かんでいる。
ざっとみても二十近い数。二つずつ対になって並んで、一本の椴松の木を遠巻きにしている。女が、そこにいた。背中を幹にはりつけ、すくんだように立ちつくしていた。
銃を持って出たのは正解だった。森の底はまだ暗いが、撃てないわけではない。今にも動き出しそうな気配の一対を狙い、引き金を引いた。
銃声が響く。一対の光が消える。他の光はざわざわと動きまわり、怒りを滴らすような唸り声を上げ始めるが、期待したように逃げ散りはしない。
「女、走れ」
叫んで、次弾を準備する。弾丸と火薬を銃口から注ぎ、槊杖で突き固め……
「何をしてる、逃げろ」
すくんでいるのか、脚の傷のせいなのか、女は動かない。青い光は興奮したように動きまわり、いつ攻撃してくるかわからない。久蔵は走り出した。再装填が間に合わないことは明白だった。走りながら銃と槊杖を背負い、腰から山刀を抜く。六寸に満たない刃物だが、他にどうしようもない。女の前に飛び出したとき、向こうからも一匹駆け出してきた。蝦夷狼。その牙が、あっというまに眼前に迫る。
刃を一閃させた。ぎゃん、と吠えて狼が飛び退る。闇雲に振り回したものが、偶然あたったに過ぎなかった。
「早く行け、次は防げない」
その「次」はもう動き出していた。それも、二頭同時。とっさに振り返った。女の襟首を掴んで脚払いをかけ地面に転がし、狼たちに向き直って両手を広げた。首に獣の牙が突きたつ、肉が噛み裂かれ、血が噴出す、その覚悟をし、目を閉じたときだった。
久蔵は風の音を聴いた。
あるいは、素早く息を吐き出すような擦過音。
空から落ちてきた何かが、狼たちの首を貫き、雪原に縫いとめていた。
二本のアイヌ矢。夜明け前の暗がりでもはっきりと分かる、炎のような赤い矢羽根。急所に当たっているわけでもないのに、狼たちは矢を折ることも立ち上がることもできず、四肢を小刻みに痙攣させて、弱々しい呻き声をもらしていた。その声が、見る見るうちにか細くなって、消えていく。
悲鳴のような、緊迫した遠吠えが響く。灯火を吹き消したように、青い光が見えなくなる。狼たちが駆け去っていく。女を助け起こした。
雪を踏みしめる静かな足音が近づいてくる。人間のものだ。矢を弓につがえている。決して大柄ではない、だが強靭そうな体躯の、壮年のアイヌ。目鼻の区別がつくほどの距離で、立ち止まった。
“……iyairaykere”
久蔵は彼らの言葉で礼を言ったが、男は応えず、久蔵を見ようとさえしなかった。ただ、
真っ黒な洞のような目で女を凝視していた。
赤い矢のカンリリカ。
おそらくそれが、この男の名だ。強力な矢毒を用いる、類稀な弓の使い手。どんな遠くからでも獲物を射とおす赤い矢羽根の矢の噂は、この一帯に広く知れ渡っている。
久蔵は、手にした山刀をしまえずにいた。相手の弓が、まだ矢をつがえたままだからだ。
風が吹いた。
夜の名残を切り裂くような、雪混じりの烈風。
視界が回復したとき、男の姿は遠い影絵になっていた。風が吹いて止むまでのわずかな間に、六丈あまりの距離を移動していたのだ。
男の影は、そのまま小さくなって、やがて木立の中にきえた。
久蔵は長い息を吐いた。冷たい汗で背中一面が濡れていることに、そのときになって気づいた。