沮渠の王
「何がおかしい?」
「おかしいに決まっている。何故、自国の公主を奪わねばならんのだ?」
烏達は懐から地図を取り出して芸史に投げつけた。肅を囲むように余、秦、韓、孟と言った大国がある。その間に小国が連なっている。
「沮渠王、これは?」
「肅の公主はどこを通る?」
「やってくれるのか?」
「肅の公主を抱きたくなっただけだ」
烏達を呆れた瞳で芸史は見つめてしまった。この男はどこか憎めない。だから、沮渠の人々は彼を「王」としたのだろう。
「公主は大昌峠を通る。狭い峠だ。わかるな?」
「わかっている。さあ、帰れ。話は終わりだ」
烏達に促されて芸史は幕を出た。外は薄暗くなっている。空にはうっすら星が光り始めていた。芸史は馬を繋いでいた木から離して、軽業師のように跨がった。
一方、王宮では王と王后が机に向かって木簡を眺めていた。木簡には、「寧原」、「金郷」、「永安」、「楽好」と書かれている。これは嬛の封号候補である。回宮する公主のために王夫妻が直接、封号をつけることにしたのだ。
「大王、お気に召したものはございましたか?」
「うむ。この楽好というのはいい」
「詩経の楽しみを好むも荒むこと無かれ…それから取ったのでしょう」
「王后は読書をしているな。この楽好という言葉も響きも良い」
「では、楽好公主で決まりですわね」
王と王后は顔を見合い微笑みあった。穏やかな時間であった。しかし、その穏やかさの裏では漆黒の嫉妬が渦巻いている。それが後宮なのだ。王は一人しかいない。だが、王后をはじめとする女は何百も何千もいる。誰かが王といれば、誰かが嫉妬をする。華陽夫人も容華夫人も、それは平等に与えられた感情だった。王宮は妙な雰囲気に包まれていた。みなが、楽好公主こと嬛が回宮することに興奮していた。あの景氏の娘が帰ってくるのだ。禁忌を背負った公主の人生を人々は娯楽としていた。しかし、下手なことは言えない。彼女は王の娘なのだから。




