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ちらりと視線を動かすと、ヘイムスは素早くアレクサンダーのいるシートへ移動していて、フェドルセンを威嚇するように唸る番犬を必死に押さえていた。
「……わたくしの番犬に噛まれてもよろしいの?」
「もう黙れ。耳障りだ」
何て無礼なのだろう。
仮にも自分の兄の嫁になる女に向かって言う言葉ではない。
「いいえ、黙りませんわ。あなたが黙れというならその耳に、夢でうなされるくらいこの声を聞かせて差し上げます」
短い髪から見える彼の耳朶に手を伸ばし、そのまま引っ張って顔を自ら近づけた。
至近距離でこちらを挑むように見つめるエメラルドグリーンの瞳を、睨み付ける。
「いいこと? わたくしはラガルタの王女で、あなたの義姉ですのよ。わたくしにこれ以上の無礼を働くというのでしたら、こちらもそれなりの事を返しますわよ」
耳朶から彼の焦げ茶色の短髪に手を移動させ、一房掴んで引っ張ってやる。ごわごわとした手触りかと覚悟したが、それは意外な程指通りが良く、指先から抜けないようにしっかりと力を入れる。
「……よくお聞きなさい、シュゼランの第二王子様。立場もわきまえず淑女をからかうのでしたら、アレクサンダーにあなたの喉を噛みちぎってもらいますわよ」
これが姉であったなら、その容姿で、仕草で、美しくいながらも気高く足や手で反撃していただろう。
これが妹であったのなら、その腕力で、有無も言わさず力で従えたのだろう。
だが、エミリアは違う。自分はこのよく回る口と、唯一信頼できる番犬アレクサンダーだけ。アレクサンダーがいなければいくら言葉巧みに操ろうと、結局は力で抑えられてしまうのは十分に理解している。
「噛みちぎる事なんてどうせ出来ないと、思わない方がよろしいですわよ。わたくしは、自分の誇りを守るためならどんなに残虐になろうとも構いませんの」
頭に思い描くのは、エミリーと、親しげに名前を呼ぶ姉姫。もう自分は怯える小さな姫ではない。敬愛する姉姫を思いだし、目の前の男を睨みつける。
フェドルセンは毒気を抜かれたようにエミリアを見下ろしていたが、やがて息を吐いてエミリアの手を振り払い、体を起こした。
「……いいぜ、誇り高いお姫様。その誇りがどこまで持つか見物だしな」
横たわったままのエミリアの手首を掴んで強引に起き上がらせながら、フェドルセンは不穏な事を言う。
「どういう意味ですの?」
フェドルセンは答えず、ただ肩をすくめただけで馬車から降りた。
そして彼は王族らしく優雅に腰を折って礼をした。
それまでとは打って変わった態度に見えるが、悪戯っぽく上がった口元が、皮肉を盛大に表している。
「城へご案内致しますよ、義姉さん?」
「ぜひお願いしますわ」
完璧な礼と言葉。
表情もにこやかな笑顔に変わり、フェドルセンがこちらへ敬意を示している──ように見えるが、エミリアの目には実に嘘臭い。
そしてエミリアも分厚い猫の皮を被って嘘を装ってみせる。お互いの嘘に気づいているのはこの馬車にいる者だけ。
まさか嫁ぎ先の義弟が、こんなにも面倒だなんて、エミリアは予想していなかった。
***
シュゼランには現在、国王はいない。王太子ルドベードはまだ正式に王座についてはいないが、その未来はそう遠くない。
噂によれば、シュゼラン国王が崩御された時、臣下達は第一王子と第二王子のどちらが次の王に相応しいか判断に迷ったそうだ。
長子として今まで政治を数多くこなしてきたルドベードか、任された数は少なくとも多大なる成果を見せて能力を出すフェドルセンか。
数はこなしていても、あまり成果を得られなかったルドベード。
長子制という訳ではなかったが、それでも長子たるルドベードなのか、しかしフェドルセンの能力も捨てがたい。
ゆっくりと咀嚼しながら、エミリアはちらりと傍に控えた侍女に視線を移す。城内にある開放されたテラスの一つへエミリアは案内された。
しかし、待っていてもお茶とお菓子しか出てこない。
「ルドベード様にはいつご挨拶させて頂けますの?」
「必要ない」
侍女の変わりに、テラスに丁度やって来たフェドルセンが即座に拒否する。ゆっくりとティーカップを持ち上げて、エミリアは微笑んだ。
「あら、どうしてですの?」
「どうやら兄は出かけたらしい。だから、必要ない」
「出かけた?」
自分の妻となる異国の王女がやってきたと言うのに?
疑問を顔に出したのか、フェドルセンは皮肉気に口元を歪めて笑った。
「お前が来ることを忘れてるんだ。兄には、もう妻がいるからな」