秋と美紗子と焼き茄子の話
秋は夕暮れ。どこの家々からも夕餉の香りが漂い始める。あの家からはカレーのスパイシーな香りが。あちらの家からは焼き肉だろうか、香ばしい香りが漂っている。三軒向こうの家からは、さんまの焼ける香りに猫達が合唱している。
秋。それは実り多く、美食の満ちる季節だ。それはここ、町外れにある一軒家でも同じであった。
『大月』と表札の出ているその家でもまた、新婚2年目の大月美紗子が夕食の支度を行っていた。
炊飯器がシューシューと白煙を吹き、味噌汁を入れた鍋は蓋をカタカタと鳴らしている。
鍋の火を止め、コンロから降ろす。グリルに入れてあるアジの開きも程よく焼け上がり、それを皿に移す。
「さて……あとは、これだけね」
美紗子の手には昨日届いた茄子があった。夫の自家から贈られてきたもだ。
「せっかくの茄子だし……焼き茄子なんか食べたいなぁ」
「じゃあ、今日の夕飯はそれにしますね。全部はあれだから……他はお漬物とか、色々作ってみますね」
「ははっ。それは楽しみだ。なら、今日は早く帰って来るから、一緒に食べよう」
「はい! 腕によりをかけて用意しますね!」
そんな今朝のやりとりを思い出し、美紗子は「ふふっ」と笑った。
既に下ごしらえをしたナスを金網の上に乗せ、焼き始める。少しすると皮が焦げ、身が焼ける何とも言えない香りが漂ってきた。
「ふんふふーん。ふふふ~ん」
焦げ目が均等に付くよう気を配りながら、鼻歌交じりに菜箸でクルリとひねる。
およそ五分ほどが過ぎてから、箸の先で茄子を軽く押してやると、身がグニャリと凹んで水分がプクプクとあぶくを立てる。焼き上がったのだ。
火を止め、金網から茄子を降ろす。熱々の茄子をまな板の上に置き、ボウルの水で手を濡らす。
焼きナスは熱い内でなければ皮を剥けない。冷める前に素早くだ。
「あっつあつーなナスの皮ー♪ だけど私もあっつあつ~♪ 愛しいあの人のため~♪ 触れるもの皆、引き裂くの~よ~♪」
熱いナスに手を触れるや、素早く、手早く、「焼き茄子の皮をむくだけの機械かよ!」と、突っ込まれそうな程の手さばきで、見る間に焼き茄子の皮を剥いでいく。
そうして全ての茄子の皮を剥ぎ終えると、美紗子は包丁を手に取る。
ヘタの方から刃を入れ、すぅ、と引く。火を通されて柔らかくなった茄子の身は抵抗もなく、速やかに切り分けられた。
それを手際良く皿に盛りつけ、かつお節をふりかけて完成だ。しょうがは香りを殺さないために、食べる直前にすりおろすのだ。
「ふふっ。それにしても美味しそう。……ちょっと、だけ、ね?」
焼き茄子のほんの切れ端を摘んで、口の中へと放り込む――直前。
「――美紗子さん?」
背後に立つ気配。ハッとして振り返る美紗子。そして――。
ドグワラッシャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!!
庭に出る為のガラス戸をダイナミックにぶち壊しながら、美紗子の体が勢い良く飛び出した。そのまま、庭の芝生の上を二度三度とバウンドして、ようやく止まる。
「う、ぐぐ……!」
ガチャリとガラス片を踏みながら、美紗子は立ち上がる。口元には血が滲み、足はふらついている。しかし、その瞳は自分をそうした相手をしっかりと見据えていた。
果たして室内から姿を見せたのは老年の女性。足取りは静かに。しかし、まるで大地に強く根ざした大樹の如き安定感である。
「い、いきなり何をするんですか……お義母様!」
「いきなり、何を……? 何を寝ぼけたことを言っているのですか、美紗子さん」
老女の正体は墨桜房枝。美紗子の夫の母親――つまり、美紗子とは嫁姑の間柄であり、また嫁道、姑道においての師弟関係でもある。
〈嫁道〉〈姑道〉とは、古くは尼将軍北条政子が『女性が家を守り身を守る為の術』として考案した打ち技を素体として完成された、女性のための格闘術『守斗』。それを修めしものを『守斗女』と呼んだことに始まる。
それが時が流れるに連れ、家庭における一挙一動に偽装された暗殺術へと進化。その恐ろしさについて、第二次大戦後のGHQの非公開報告書にはこう記されている。
『もしも、沖縄より本土へと侵攻をしていたならば、我々は途方も無い犠牲を強いられていただろう』
街にいる極普通の女性、あるいは老婆。道行く一握り、あるいはその全てが凄腕の兵士、あるいは暗殺者。それを知ってしまえばどれ程に恐ろしいか。
それ故にGHQによって禁止され、衰退の一途をたどっていた〈嫁道〉〈姑道〉であったが、その系譜は絶えることなく、現代まで脈々と受け継がれていた。
「夫が茄子を送ったというから、嫌な予感がして来てみれば……まさか焼き茄子などと。身の程を知りなさい」
その手に茄子の皿を載せたまま、房枝はジャリ、ジャリと音を立てながら、何事もないかのようにガラス片の撒き散らされた庭へと素足を下ろした。
「身の程……? どういう事ですか、お母様!?」
美紗子は意味が分からないとばかりに頭を振った。その様子に房枝は呆れた顔を見せ、そして言った。
「〈嫁道〉を修めているならば知っている筈。〈姑道〉曰く――」
『――秋茄子は嫁に食わすな!!』
「っ――!!」
美紗子は頭を殴られたような衝撃を受けた。姑道において秋茄子とは禁忌である。そして嫁道においてもまた然り。
”嫁道を修めしもの、姑道を超えてこそ秋茄子を食すべし”と、きつく戒められているのだ。
「どうやら思い出したようね。まったく……そんな花畑みたいな頭では、大事な一人息子の嫁など務められないと知りなさい」
「っ……もうしわけ、ありません」
美紗子は粛々と答えた。嫁と姑。その立場は天と地。人と神程の差があるのだ。だが、しかし――。
「でも……それでも! あの人がそれを楽しみにしているんです……! だから、手向かいいたしますお義母様!」
美紗子は『ドン!』と強く右足を踏み込む。震脚と呼ばれるその技で、庭に散らばったガラス片を宙へと打ち上げる。キラキラと夕日を照り返すガラス片が美紗子に視点まで上がった瞬間。
「破ッ!」
一瞬で七発。美紗子の突きガラス片を弾丸のごとく弾く。触れれば皮膚を裂き、刺されば箇所によっては致命傷だ。
しかし房枝は怯むこと無く、片手を振るう。大きな破片を指で挟み、小さい破片を払い落とした。
「シッ!」
美紗子は、払い落としでがら空きとなった房枝の懐へと飛び込んだ。狙いは水月。手刀を突き立てるべく繰り出した。
だが、その一撃は容易く躱されてしまう。美紗子の視界から房枝の姿が一瞬で消える。瞬間、美紗子は両腕を十字に添えてブロックする。その上で強い衝撃が走った。
「ぐっ!」
「ハイィ!!」
美紗子の両腕が大きく弾き上げられる。さっきと今と、それを成したのが房枝の蹴り足であると理解した直後、美紗子の腹部には返しの蹴りが突き刺さっていた。
「がはっ!?」
「――腕が鈍ったようね、美紗子さん?」
房枝は何事もないかのようにその場に立った。美紗子は数歩下がり、態勢を整える。
「流石です……お義母様。姑道免許皆伝は伊達ではありませんね」
深く、息を吸い込み、そして吐き出す。気を練り、全身の気脈へと流していく。指の先にまで力が漲り、それが陽炎となって発露する。
「ならば大人しく、秋茄子は諦めなさい。その程度の腕で、〈嫁道の反旗〉を成そうなどとは片腹痛い」
対する房枝も、皿を持ち上げるようにして半身に構える。睨み合う両者。先んじたのは――美紗子だ。
嵐のような打ち込み。拳が空を引き裂き、翻る蹴り足が烈風を起こす。だが、ただの一発も房枝には届かない。美紗子の猛攻を、まるで涼風にでも撫でられているかのように、表情一つ崩さず捌き、躱す。
それだけではない。これほどに激しい攻めを受けながら、その手の上の茄子は、盛りつけたまま一欠片も落ちていない。それ程までに効率化された、無駄を徹底的に廃した体捌きだった。
美紗子は焦った。夫が帰ってくるまでそう時間はない。房枝を退け、身なりを直し、そして玄関先で夫を迎えるのだ。そのためには何としても、この場を制せなければ。
焦りから、美紗子の動きが単純かつ大雑把になる。それを房枝は見逃さなかった。
「ふんっ!」
「ッ!?」
美紗子の伸びきった腕に、房枝は蛇の如く自身の腕を絡めてきた。そして半歩下がり、胸を開くようにして引き付ける。美紗子の体がつんのめるように前へと吸い込まれる。
まずい、これは。そう思った瞬間、美紗子の視界が一気に回転した。次いで浮遊感が全身を支配する。反転した世界。美紗子は両腕をクロスして防御。その上に、まるで大槌の一撃かと紛わん程の衝撃が
美紗子を貫いた。
それは房枝の蹴りだ。一見華奢なその体の何処にと思うほどの力が、それには篭められていた。
「くっ!」
美紗子は飛ばされながらも身を翻し、庭石を蹴る。反動を利用しての強襲を仕掛ける。
鋭く繰り出す拳は、しかし房枝に躱される。だがこれは美紗子も予想済みだ。背を向けたまま、右足がサソリの尾の如く翻った。
「むっ」
房枝が身を反ることでそれを躱す。美紗子は蹴り足を地に叩きつけ、更に追撃する。
「イヤァアアアア!」
三撃。四撃。五撃。回数を増す度に蹴りの速度が上がっていく。その軌跡は宛ら夜天に煌めく月華の如し。それこそ〈嫁道〉奥義――。
「嫁月輝……!」
蹴りの嵐は留まるところを知らず。ついには房枝の牙城が揺らぐ。房枝は大きく飛び退こうとする。
それが、それこそが美紗子の狙い。大きく飛び退こうとしたことで、隙が生じた。
嫁月輝からの派生――戎嫁。振り抜かれる蹴り足の軌道を切り替えての前蹴り。ひねりを加えられた一撃は大岩さえ穿つ威力を持つ。
「オォオオオオ!」
宛らライフル弾の如く繰り出される一撃は真っ直ぐに伸び、房枝の腕を捉えた。
宙に舞う皿。そして茄子。美紗子の意識がそちらに移る。房枝は戎嫁の一撃を受けて、完全にバランスを崩している。今、追撃を仕掛ければ決定打を与えられるだろう。だが、美紗子はその手を伸ばし皿を掴んだ。
果たすべきは房枝を倒すことではない。果たすべきは夫との約束。守るべきは己ではない。守るべきは愛する夫の茄子だ。
美紗子は皿を持つ方とは逆の手を茄子に向けて突き出した。だが、食べ物を直接手掴みするような真似はしない。
「ハァッ!」
指先が鋭く振るわれる。その機動に真空が生まれ、茄子が吸い込まれる。ふわりと上がった茄子が次々に皿へと着地していく。
「ひぃふぅみぃ……良かった、全部ある」
全部回収できたことに安堵の息を吐く美紗子。房枝は既に態勢を直しいている。それに注意を払いながら、皿を縁側へと置く。
「訂正しましょう。僅かばかりは腕を上げたようですね。それに……今の攻撃には芯のようなものが感じられましたね」
「当然です。今の私には……足掻きもがく事を諦めない意思と、意義があるのですから!」
「……良いでしょう。次の一手にて、幕引きとします」
「ッ……!?」
気配が変わった。肌に突き刺さる明確な殺気に、美紗子は反射的に構えをとった。
「発気を抑し、気道を制し、練気を阻む……故に必殺。故に必滅。いざ」
ごう! と、風が吹いた。いや、それは風ではない。房枝の体捌きで発したものだ。房枝は美紗子の懐へと一瞬で飛び込んできた。そして両腕を滑りこませるようにして、美紗子の構えた腕を弾いた。
「しまっ……がっ!」
振り上げた腕をそのまま降ろしての手刀。そこから始まるのは煉獄の責め苦。
それは起床から就寝までの、所謂〈嫁いびり〉に擬えて組み上げられた――姑道秘奥義。
弐拾四手、壱百六拾八連躯から成る連撃を喰らった嫁はトラウマを刻まれ、心をえぐられ、心身に深いダメージを受ける。
〈嫁〉という存在を粉々に〈砕く〉。すなわち――。
「―――嫁砕き」
それは嵐の如き暴威。抗おうとすればする程に呑み込まれる、無間地獄。
美紗子は悲鳴さえ上げられないまま、濁流に踊らされる木っ端の如く翻弄される。全身に苦痛が絶え間なく走り、その痛みの一つ一つが嫁としての修行――その過程にあってのいびりの記憶を呼び覚ます。
(これは……! これ以上喰らったら……ダメ!)
そう思うも、既に連撃は止まらない。止めるには次の一手を先読みし、阻まなければならない。だが、一手に対して選択肢は壱拾四。それも途中から変化させることも出来る。先の先を読み切り、そこから後の先を取る。それは最早神の御業だ。
(でも……それでも!)
苦痛あふれる美紗子の心に、一筋の光が奔る。
『あぁ、ごめん。それ、僕のだ。君は……もしかして母さんの生徒さん?』
出会いは偶然。風に乗って飛んできた帽子を拾ったことからだった。
『美紗子さんは……いつから母さんのところにいるんですか?』
そこから始まった交流は、最初は世間話程度。でも、厳しい修業の日々の支えになって。それが何時しか淡い想いに変わるまで時間は掛からなかった。
『あのさ……もし今度、時間があったら……一緒に何処かに出かけないか?』
照れながら笑うその顔が可愛くて。握ってくれるその手が温かくて。優しくて、そして真っ直ぐな人。今みたいな世の中じゃ、きっと合わない……不器用な人。
だから、この人を支えたいと思った。
『せっかくの茄子だし……焼き茄子なんか食べたいなぁ』
『じゃあ、今日の夕飯はそれにしますね。全部はあれだから……他はお漬物とか、色々作ってみますね』
『ははっ。それは楽しみだ。なら、今日は早く帰って来るから、一緒に食べよう』
約束をしたのだ。一緒に………いっしょに…………イッショニ!
嫁砕き――房枝の煉獄は最後の一撃へと向かう。フィニッシュは就寝の布団めくりを模した、手刀による二連刺突。その攻撃は美紗子の全てを粉々にするだろう。
だが――。
「っ――!?」
まるで先程の繰り返しのように、今度は房枝の両腕が弾き上げられた。
防がれた!? 初めて、房枝の表情に驚きの色が見えた。だが、房枝はすぐに次の一手を打つ。
嫁砕きはまだ止まらない。弾かれた腕を回して、救い上げるように掌打を放つ。だが、これも弾かれる。
蹴る。打つ。しかし蹴撃が、拳打が、尽く阻まれる。まるで瀑布に小枝を振るっているかのような無力感。連躯が完全に止められた。
突然、何が起こったのか。嫁砕きは、完璧だった。一度嵌ってしまえば、抜け出すことなど出来ない。故に奥義なのだ。だというのに、美紗子はそれを返してみせた。
彼女に何が起こった? 焦りの中、房江は見た。美紗子の瞳が赤々としていることに。
それが示す事実を房枝は即座に悟った。
「まさか――至ったというの!?」
嫁道とは修羅の道行。その道行くものは尽く鬼となれリ。角隠しは修羅なるを隠したもうこと。
さりとて、一度至れば、その瞳は紅蓮よりも赤く。夜天を自在とする梟の如く、先見えぬ闇の遥か先までも見通す。
その前には如何なるも無力なり。自らを鬼とし、立ちはだかる全てを等しく滅する。
嫁道禁術。その名は――。
「鬼夜目――!!」
「オォオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
美紗子の繰り出した一撃が、吸い込まれるように房枝の水月を貫いた。
「……こ。み…こ? みさこ……!」
声がする。微睡みの闇の中、響く光だ。それは暗泥の底に沈んでいた美紗子の意識を浮上させる。
「っ……。あな……た……?」
ゆっくりと持ち上がる緞帳の向こう、薄ぼんやりとした茜色の世界に、愛する人の顔が見えた。心底安心したとばかりに破顔している。
「あぁ、良かった。帰ってきたら、君が庭に倒れているんだもの。驚いたのなんの……それで、何があったの?」
「えっと……あっ」
体を起こし手当たりを見回す。そして驚いた。
あれだけ派手に暴れたというのに、庭には一切の痕跡がなかった。ぶち破ってしまったはずのガラス戸も元通りだし、踏み込みで抉ってしまった芝生も何事もなかったように綺麗になっていた。ガラス片も一つたりとも落ちていない。
そして、房枝の姿もまた。
全ては夢だったのか? いや、そんな事はない。体に残る痛みと、縁側に置かれたままになっている――焼き茄子の皿が、その証拠だ。
(お義母様ね。この短時間で……さすがとしか言いようが無いわ)
この優しい夫は〈嫁道〉の事も〈姑道〉の事も知らない。房枝のもとにいたのも、ただ普通に花嫁修業をしていただけだと信じている。
「………いいえ。なんでもないわ。ちょっと、庭に転がってみただけよ」
「庭に? ……妙なことするねぇ。まぁ、たしかに芝生に寝っ転がるのは気持ちいいけど……こっちは心臓が止まるかと思ったんだ。もう、やらないでくれるかい?」
「えぇ。もうしないわ」
夫に手を引かれ、立ち上がる。
「ご飯の前に、お風呂に入ったほうがいいね。体中、泥だらけじゃないか」
「なら、一緒に入りますか?」
「そうしたいけど……ご飯の用意をしとくよ。出てきたら、直ぐに食べられるように、ね」
「………わかりました」
美紗子は夫の好意に甘えることにした。確かに体中汚れている。これをこのままとは行かない。
準備も万全だ。後は味噌汁を温め直し、ご飯とよそって、おかずをテーブルに並べるだけだ。
「お、焼き茄子。これは美味しそうだねぇ!」
焼き茄子の皿を持ち上げ、香る。その表情は出会った時のまま、愛らしい。
だから、美紗子は満面の笑みで答えた。
「えぇ。なにせ――私のありったけの愛情が篭ってますもの」




