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「ねえ、あなた、大丈夫なの?」
真っ赤な空を半分身に透かせて、幽霊と呼ばれた少女、グレーテが尋ねてきた。
「お前さん、顔、真っ白だぜ」
ニコまでが長身を折り曲げて僕の顔を覗き込んでくる。
僕らは赤い空の下、村までの道を戻っていた。僕は歩いてはいたが、急に黙り込んだようだった。それで二人は心配してくれたのだろう。
では、あの、夢のような記憶のようなものは、白昼夢とでも言うべきものなのだろうか。「うん、大丈夫」
朱赤の太陽が皮膚を灼く。服の表面も灼く。頭はぼうっとしてくる。だから、今見たものが夢なのか、妄想なのか、過去の記憶なのか、すぐには判別がつかなかった。
僕らは再び歩き始め、やがて村が見えてきた。
その、建物の数の少なさ。
しかし、夢の後の僕は、この建物と人の少なさに、違和感を覚えなくなっていた。
あの夢でだって、人は少なかった。ちょうどこの村の人数くらいしかいなかったことを覚えている。
その、覚えている、という感覚に実感が伴っていた。あの白昼夢らしきものは、やはり、僕の無くしていた記憶なのだろうと思えた。僕はかつて、空の青い所にいたのだ。
夢を見た、その夢よりも、この赤い空の下にいる今の方が、よほど夢のように思える。
と、村の門まで来たところで、身体の透けたグレーテが立ち止まってしまった。
「どうしたの」
「村に入りたくないの」
ニコが首を捻った。
「お前、いつも村には寄りつかないよな。何でだ?」
「だって、透けてるのって私だけなんだもん」
「そういえば、透けたり浮いたりしてるアニミストはいなかったね……」
「飲んだり食べたりしないのも私だけよ」
「お前さん、水も飲まないのか」
「だから、居づらいの、村の中。でも私、この人に、何かお礼をしたほうがいいと思って」
「だったら、掃除でも手伝ってやればいいんじゃないか? ツァラはこれから、空き家を見繕って住処を整えるところさ」
そういえばと、僕は住人より家の方が少し多かった事を思い出した。カーの城にいる人を数えても、やはり家の方が多いのだろう。
「掃除……できるかしら」
グレーテは僕らについて門をくぐったが、宙で方をそわそわとさせている。
ニコは門の近く、大通り沿いの緑色の家に目をとめて、確か空き家だったと扉を開けた。
中を覗けば、確かに誰もいない。家具や家財道具はしばらく使われた形跡が無く、うっすらと埃をかぶっていた。
「この家を使うといい」
ニコは扉を開け放ち、ずかずかと中へ入って、窓を開けた。中の壁紙も緑色だ。
「けど、この家のもとの持ち主に尋ねなくっていいの」
「随分前にいなくなっちまったからな、大丈夫さ」
「いなくなるって、どこへ行ったの?」
この島には村がひとつしかないのに?
「さあ、どこなんだろうなあ……」
ニコは言いながら、少し考えているようだった。思いをはせている、というようにも見えた。
すると、宙に浮いて棚の上の埃をふっと吹いてから、グレーテが口を開いた。
「どこに行くかは、わからないわ。ただ、消えてしまうの」
「消える?」
「そう。トラウマが全身に回ると、アニミスト達や魚人達は、消えてしまうの。いつのまにか、どこかへ」
「じゃ、あの病気が原因なの?」
僕はカーの炭のように黒い手を思い出した。
「あの病気、最後は死ぬんじゃないんだ」
「同じ事よ。消えてしまうのも、……死んでしまうのも」
グレーテは死ぬという言葉の前に、少しだけためらった。きっと口にするのが怖かったのだろう、と思った。
「この家の前の住人はイェンスといったの。村の外で時々見かけるだけだったけど。彼もトラウマにだんだん冒されていって、外で見かけなくなっていったわ。そして、いつのまにか、ふっといなくなってしまったのよ」
棚の鍋を動かそうとして、グレーテは鍋を掴んだが、落としてしまった。いや、落としたのでは無く、鍋が手をすり抜けてしまったのだ。
「……やっぱり重いものは持てないわ」
「無理しなくていいよ。埃を掃いてくれれば十分」
丁度見つけた小さなはたきを僕はグレーテに渡した。
それからベッドを整える。城で見た、あのカーの手から立ち上った黒い霧が残っていたりしないか不安に思ったが、寝具は使われた形跡も感じないほどきれいだった。どうやら、家は安心して使えるようだ。
そして、ほうきを見つけて床を掃きにかかったニコに、僕は尋ねた。
「ニコは、この家の前の住人の事、覚えてないの」
それなんだよなあ、とニコは、いやにのんびりと呟いた。
「覚えてないんだよ。村のアニミストは協力し合わなけりゃならないし、水だって分け合うし、泉や城の番も交代でするしで、知らないはずはないんだけどな」
「別に、忘れてるのはニコだけじゃないわよ。私のことだって、しばらくぶりに会って忘れてるアニミストはいるわ」
「そうなのか」
「ニコだって私の名前を忘れるでしょ。ニコはしょっちゅう出歩いているから、いろいろな事を覚えているみたいだけど、みんながそうって訳ではないわ。あなたたちは、ずいぶん多くのアニミストが消えてしまっているのに、平然と暮らしているのよ」
何だか、グレーテの言い分だと、アニミストたちは少しの間会わないだけで互いを忘れ去ってしまいそうだ。
「幽霊、お前さんはそれをいちいち覚えているのか」
「覚えているわ」
グレーテははっきりと言った。
「覚えているわ。私はずっと、村を外から見てきたの。村の事情を詳しくは知らないし、城のことも知らないけれど、ニコが砂からやってきた日のことも覚えているわ」
「俺は忘れたぜ、俺の出てきた日のことなんか」
「何人ものアニミストが砂からやってきては消えているわ。ニコ、あなたたちこそ本当に覚えていないの?」
何で覚えていないんだろうな。ニコはひとりごちて、僕を見た。
「お前さんならどうなんだろうな、ツァラ」
そう言われても、今日やって来たばかりの僕にはどうとも言いようがない。
「俺たちが知っている事は、世界に対して、ずいぶん少ない。覚えている事も、あまりにも少ない……けれど、お前さんもそうとは、限らないんじゃないかな」
ニコは扉を開け、埃を大きく掃いた。日が傾き、西の空は最後の朱赤の輝きを残し、東の空は赤黒く陰りを見せていた。僕は歓声を上げる。
「夜が来るの」
「そうだ。夜は暗いぜ。明かりが要るな」
「なんだか、夢みたいだ……」
照明器具を探そうとしたのだろう、屋内に戻りかけたニコが歩みを止めた。
「夢?」
「そう、こんな世界にも、夜が来るなんて、夢みたいだ」
僕は思わず、昼間から感じていた事を口にした。
「夢……ねえ」
ニコも僕と並んで空を見た。グレーテがそれに倣う。
「夢なんて言葉もあったなあ。村に来てから、見た事ないぜ」