7
ユーディは水差しに水を汲み、先に村に帰ることになった。僕とニコは城を出、赤い砂地を南に向かった。
「こっち側も海に面しているの」
「ああ、海はぐるっと陸を囲んでいるんだ」「じゃあ、ここは島なんだね」
島、とニコは繰り返した。そして、不意に考え込むような顔をして遠くを見た。
「島、ねえ。そういう言い方もできるなあ。ツァラ、お前さんは本当、村の連中とは違う言葉を使うんだな」
「僕……変なこと言った?」
いや、とニコは首を振る。
「ただ……他に陸地がないのに、このただ一つの陸地を指すのに、島って言うのかなって思ってな」
えっ。僕は息をのんだ。一瞬、次の言葉が出せずに、辛うじて喉の奥から確認の言葉を絞り出した。
「他に陸地……ないの」
「ないな」
「じゃ、他の村は」
「ないよ。……魚人っていう、ちょっと人間と違う奴らの村がひとつあるだけだ」
ニコは来た道を振り返り、見えなくなった城の方を指さした。
「変なこと考えちまったな。まあ、いいさ。その、島のど真ん中が、城。城っつうか、泉だな」
そしてまた向き直り、少し歩くと、砂の丘の向こうに赤い海が見えてきた。
「海の中に村があるのが見えるか?」
言われて僕は目を凝らす。
海は遠浅なのだろう、沖の方まで砂の黄色が浮き出て見えるが、その、ちょうど海底の色が見えなくなる境目の辺りに、一部分だけ黒っぽい色をしているところがあった。
「あの、沖の方のところ?」
「そうだ。昔は小さかったんだがな、魚人はじわじわと増えていて、村もずいぶんでっかくなっちまった。今じゃアニミストの村よりでかいし、人数も多い。魚人のやつらは俺たちの村と城を狙っているから、今後はちょっと危ない気配だな」
「城を? あんな何もないところを?」
「何もなかったかい?」
ニコがにやにや笑って僕の顔を見る。僕が考えるのを促しているのだ。
「……そうか、泉か。魚人の村には真水がないんだね?」
「そういうこと」
ニコは指を鳴らした。
「魚人たちは、海水を飲んでいても平気らしいんだが。けれど、魚人もトラウマに罹るから、真水は必要なんだろう。それで奴らはずっと城を、泉を狙ってる」
少しなら分けてあげればいいのに、と僕が思った時、海岸線の方から高い悲鳴が聞こえてきた。女の人のもののように思える。
「誰かいるのかな」
「いや、村の連中は海にはまず近づかない。まずいぜ、これは、幽霊ちゃんが襲われてるんだ」
「幽霊?」
「見りゃわかる。助けにいくぞ」
ニコについて砂の丘を降りると、海岸線が見えてくる。そこに、人影が三つ、波打ち際を走っているのが見えた。どうやら、後ろの二人が前の一人を追いかけているようだ。
おおい、やめろ、とニコが大声を上げて走って行く。しかし、本気を出して走ると僕はニコを追い越してしまった。
「その子だ、その子をかばってやってくれ」
ニコの声を背中に聞きながら、走ってくるその少女を見て、僕は思わずおおと声を上げた。
少女の姿は半透明で、その身体は、宙に浮いていたのだ。
彼女は頭を抱えながら、低い空をすうっと滑って逃げてくる。僕は彼女のもとまでたどり着き、棒まで持って追う二人との間に割って入った。
「一体どうしたのか知らないけれど、穏便に、ね、穏便に」
僕は二人の姿を見た。ほとんど人間の男と変わらない体躯だが、顎から首の、ちょうどえらの部分がぱっくりと割れていること、また肌の表面で薄いうろこらしいものが玉虫色に輝いていることが、僕の知っている人間とも、ニコたちの言うアニミストとも違うところだ。よく見れば、棒を握る手にも、水かきがついている。
なるほど、これが魚人か。
少女が僕の背中に隠れ、肩に手をのせて魚人たちを覗き込んだ。宙に浮いている彼女の頭は僕よりも高いところにあって、どうやら空中で縮こまっているらしかった。
「急に追いかけてきたのよ。私はなにもしていないのに」
「海に入ったろう」
魚人の一人が、棒を振りかざして叫んだ。少女はびくっと身を震わせたが、僕にはその棒が、とても華奢でもろそうに思えた。
「……う、海くらい、いいじゃないの。海はみんなのものよ」
「村の領地だ」
「何か探りに来たんだろう」
「何かって、何よ、そっちに用事なんて何もないわ、きゃっ」
魚人の一人が、持っている棒を振りかぶり、僕らめがけてぴゅっと投げつけた。
少女は悲鳴を上げたが、僕は難なく、その投げ槍を受け止めた。槍はやはり、細く、軽く、古い流木を削って作ったといった風情だった。当たっても大した怪我はしなかろうが、僕は彼らを落ち着かせるため、ちょっと脅しをかけてみることにした。
棒の中心を右手で握り、ぐっと握り込み、そのまま拳に力を込めると、棒はぴしぱしと木片を散らし始め、そしてすぐにめきりと折れてしまった。
「何だ、大したことないね」
これは効果覿面だったようで、魚人たちはじりじりと後じさってから、何だかよく分からない捨て台詞を残し、走って帰っていった。
「もう大丈夫、かな」
「呆れた。乱暴なひとね」
あれれ。助けて貰ったはずの少女は不満気にぷいとそっぽを向いてしまった。
「全くだぜ、武器を握りつぶすなんて無茶しやがる。おかげで俺の出番がなくなっちまったぜ」
「それは、君の足が遅いから」
「おいおい、俺は村一番の俊足だぞ。……今の今まではな」
そしてニコは少女に向き直った。
「こらっ、幽霊! お前、その身体じゃ危ないんだから海へ近づくなって何度も言っただろ?」
「幽霊じゃないわ、身体が半分空気でできているだけよっ。大体いっつも人の名前を忘れて、私はグレーテっていうのよっ」
グレーテ
……グレーテ。
その名前が頭に入った時、僕の身体は自然と震え始めた。
「……あなた、どうしたの?」
冷や汗が背筋を落ちる。膝が震えて地に落ちる。
「おい、しっかりしろ」
差し出されたニコの手を借りて、僕は再び立ち上がった。
半透明の少女、グレーテ。
僕はこの人を知っている。とても仲良しだった……人だ。