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 カーは大儀そうに、僕の頬へと手を伸ばした。

「今日は調子が悪くてな」

 はじめ僕は、差し伸べられたカーの右手には、服と同じ黒い手袋がはめられているのだと思った。

 しかし、その右手が僕の頬に触れそうなくらいに近づいて、その黒い手に皺や、関節や、爪があるのがはっきりと見えた。

 手袋ではなく、手が真っ黒に染まっているのだ。

 僕は思わず息を飲み、カーの全身に目を向けた。半身を起こした彼の身体はおおかた長衣に包まれていたが、首もとや左手や、足首が同じように黒いのが見て取れた。

「驚いたか」

 カーは椅子に座った低い位置から僕を見上げる。どこか試すような視線だと僕は感じた。

「トラウマという病でな。この世界では珍しくないのだ」

 カーはゆっくりと立ち上がり、小さな飾り卓へと歩み寄って、水差しを取った。透明な水が湛えられている。

「真水で洗うと一時的に良くなる。海水はたっぷりとあるが、海水ではいけない」

 僕に説明しているのだろうが、独り言のようにカーは呟き、水差しを傾けて右手を洗った。黒い水が盆の中へ滴り落ち、指先が彼本来の肌の色を取り戻した。

 僕は近寄って盆の中を見てみた。黒い煙がしゅうと上がり、消えた。べつだん水が黒くなっているわけではなかった。

「こんな世界で、その者が生きていけるのか、試すのが、洗礼だ」

 カーは僕の前に立つと、ユーディと同じように傷のある右手の人差し指の先を僕に見せた。白い肌の指先は、しかし、血の気を見せて仄赤い。

 そして、左手で僕の顎に触れ、首筋を撫で、頭を抱いた。

「お前に洗礼を与える」

 カーが親指で人差し指の腹を押し、傷を開く。ぷつ、と小さな音のすぐ後に、赤い血の玉が白い皮膚の隙間を割いてふくれあがる。

 それをカーは、軽く自らの唇に触れさせてから、僕の唇に押しつけた。意外にも力強くあてがわれたその指先は、僕の歯を割り、舌先に触れた。口中に血の味が広がる。

「飲み込め」

 言われて、僕はそのわずかの血と唾液をやや無理をして飲み込む。カーは僕の頤から喉に指を進め、飲み下す喉の動きを胸まで指で辿った。

「苦しまないな?」

 カーは小首を傾げ、僕の目を覗き込んだ。「では、終わりだ」

 カーが頭を抱えていた手を離す。それでも僕は惚けてすぐに立ち上がることができない。「……今のは」

 僕の素朴な問いに、カーは柔らかにひとつ瞬いてから答える。

「確かめているのさ。この世界で生きていけるかどうかを」

 カーはゆっくりと長椅子へ歩き、そっと腰掛けた。病身で辛いために挙動が遅いだけなのだろうが、それはとても優雅に見えた。

 彼は再び長椅子に寝そべり、仰向いて目を閉じる。

「私の血を拒む身体では、この空の下では生きていけない。……多くの者は」

「血を拒む……」

 僕は先だってのあの赤い実を思い出した。

「けれど、他人の血からなるものは、食べられないって」

「私の血だけは特別だ。アニミストなら誰でも、私の血だけは飲むことができる」

 カーは首だけを捩り、僕を見た。

「お前も、トラウマに身体を蝕まれたら来るといい。この血は、特効薬だ」

「治るものなのですか?」

「手遅れでなければ。しかし、いつかは罹るものだからな」

 カーは首を戻し、また高い天井をぼんやりと見つめた。

「……お前には、魚人たちから村を守ってもらわねばならん……」

「ギョジン?」

「そう、まつろわぬ海の民……この世に在ってはいけない者たち……」

 不穏なことを、カーはうとうととまどろみながら言った。

 海の者とは仲が悪い、と始めに言ったニコの言を僕は思い出す。

「村と水を脅かす者たち……我々は、戦わなければ……」

 言葉の終わりは、すうと心地よさそうな寝息に変わった。顔を覗き込めば、少し汗をかいている。トラウマという病気のせいだろうか。僕は袖口でその汗をぬぐった。


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