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稜線を越え、僕の倒れていた辺りを越え、話をしながらしばらく歩くと、確かにニコの言うとおり、少し低くなった砂地に住居の集落が見えた。
だが、僕が村と聞いて思い浮かべたより、家の数がずっと少ない。ざっと数えるまでもない。二十五、小屋か家かわからないものも含めて二十八戸。それが、一本の道、一つの広場に沿って並んでいた。随分横に長い村だ。
記憶がなくても、それが村と呼ぶには極めて少ない数だということを僕は知っていた。ちょうど、記憶がなくても空の赤くないはずであることを知っていたように。
村の入り口には、小さな柵と門が設えてあった。なんだか石のような、やや緑味がかった灰色をしているが、よく見れば木でできている。あの血のように赤い太陽に灼かれるせいだろうか、それは随分古く、痛んで、もろそうに見えた。
ニコは何気なく門を潜り、道をどんどん進んだ。突き当たりには広場があるから、彼はそこへ向かっているのだろう。家々は近くで見るとなお小さく、みな平屋で、柵や門と同じような、古びて、日に灼けて……疲れた色をしている。
「待ってな、みんなに紹介してやるから」
広場には小さな鐘つき台があり、ニコがかんかんと鐘をつくと、その乾いた音のほとんど直後に一斉に家々の扉が開き、ぞろぞろと住民が集まってきた。
その様子を見ていると、どうも再び、違和感に胸が騒いだ。
静かすぎるのだ。
そして僕はその原因に気付く。一つの家から、それぞれ一人しか、人が出てこないのだ。 ひそひそ、さわさわと集った群衆がさざめく。ニコがそれを広場の中央へ集めている。目だけで頭数を数えると、二十三人。ニコとぼくを足して二十五人。あの家々には空き家があったのだ。
記憶のないことで、何につけても判断が鈍っていると思う。それにしても、この人数に比べてその話し声はおとなしすぎるように感じられた。これではちょっと、喧噪と表現する訳にはいかない。
「今日、久々に新入りがやってきたので紹介する。砂漠から来たのだそうだ。記憶がないと言っているから、みんな、特によくしてやってくれ」
「砂漠? カーが城から連れてきたんじゃないの?」
先頭にいた女が怪訝そうに尋ねた。後ろのほうでひそひそと、珍しいね、久しぶりだねと囁き合うのが聞こえる。
少しだけ、背中に悪寒が走った。先刻はニコの様子に安心したが、僕のような者が村にいるわけではなさそうだ。
僕は記憶の戻らない不安におののく。記憶をなくしたのが僕だけで、それを取り戻す術が見つからなければ……僕はどうすればいいのだろう。
「違うそうなんだ。だから言葉通りの新入りだと思うんだが、……誰か、こいつを知ってるって奴はいるかい?」
「けど、そいつはカーなんじゃないのか」
今度は向かって右手の二列目あたりにいた男が問うた。僕やニコ、正面の女の子よりは年を取っていて、壮年という頃に見える。
「服が違うけど、そっくりだ」
「でも、カーならさっき私会ったばかりよ」
「だろ、俺も会った。他人の空似らしいんだよ、よく見ると何となく違うし」
「じゃ、名前は」
後方から誰かが問うた。
「名前も忘れたらしいんだな。俺たちが誰も知らないなら、カーに聞いてみるしかないよな」
「どのみち、本当に新入りなら、カーに会わせなくちゃならないでしょ」
そうなんだ、俺が城まで連れていくよ、とニコが言うと、群衆は納得したようだった。
それからニコが僕を前に押しやった。
「ほれ、あいさつ」
「え……あいさつって、何すればいいの」
「まあ、頭でも下げとけって」
僕は人々を見回した。よく見てみれば、皆、髪も肌も、様々な色をしている。それから、なるべく丁寧にお辞儀をした。
集会はそれでお開きとなり、人々は粛々と自らの家に帰っていった。その挙動もまた、何だかやたらに静かなのだった。
後には、靴を脱いで足を拭くニコと、一度家へ帰り、また戻ってきた先程の女の子が残った。
「ユーディ、無理に気ぃ利かせなくていいぞ」
「なあに? どうせ布巾の替えなんて持ってないでしょうから、持って来てあげたのよ?」
女の子はニコと僕に一枚ずつ、薄い布きれを渡して、それで足拭いてねと言ってくれた。
「私はユーディっていうの」
ユーディは僕が靴を脱いで足を拭くのをじっと待ってから、さらに水筒とコップを渡してくれた。
「砂漠から来たのなら、泉がなかったでしょ。喉が渇いてると思って」
「あ、ありがとう」
それは簡単な水筒、というよりは水差しに近いようなもので、蓋がなかった。傾けてコップに水を注ぐと、その水は透き通って色がなかった。
「赤くない」
「そうよ。真水だもの」
「真水は色がないんだね」
「ああ、海を見たのね。そう、海水は少し赤いの。飲んじゃだめよ」
「え、そうなの?」
僕、さっきちょっと飲んじゃったけど……。
「だめなの。飲むと吐いちゃうし、たくさん飲むと死んでしまうって言われてる」
僕、大丈夫だったけど……。
第一、海の水とは、確かに飲用ではないが、飲んで身体を損ねるようなものだったろうか?
だが、ユーディが真剣な顔なので、僕は黙っておくことにした。
「……一仕事終えたら、腹が減ったな」
「ほんと、もうお昼時ね」
二人が赤い空を見上げる。空は陰影のあるまま、空の最も高いところにある太陽の近辺だけがやや朱赤に明るくなっていた。
これが、昼だというのか。確かに太陽は中天にあるが、僕の知っている昼よりはずっと暗く、赤い。
「ねえ」
「ん?」
僕がおずおずと問うと、ニコはやはり、人のよさそうな笑顔で応えた。
「昼があるなら、夜もあるの?」
「あるさ。日が沈んで暗くなる。昼はあったかいが、夜は冷える。何だ、何もかも忘れてるってわけでもないんだな」
僕の胸騒ぎには気付かない様子で、ニコは朗らかに言い、それから、右手を開いて腕を伸ばした。
「じゃ、食事の仕方は知ってるか?」
ニコは僕より、少し複雑な服を着ている。上衣は短く、ズボンを穿いて、上着にはいくつかポケットもついている。
そのポケットから、彼は右手で小さなナイフを取り出した。
「知らないなら覚えとけ。血は地に生命を与え、生命は花開き、俺たちはその生命を食う。故にこの行為をアニミズムと呼び、我々は我々を、アニミストと呼ぶ」
言いながら、彼はそのナイフで、自分の左の掌を、さっと切り裂いた。
「!」
思わず息を飲む僕の前で、ニコは傷のついた手を強く握り締めた。一、二滴、三滴と、掌の丘を伝い、濁って赤い血の雫が砂地にしたたり落ちる。血が地面に小さな染みを作った。
と、その染みから、小さな赤い芽が、土を割って頭を出した。
それは瞬く間にするすると地面から伸び、赤い茎になり、赤い葉をつけ、赤い小さな花をつけて落とし、そして、赤い実を結んだ。
瓜のような、艶光りするその実もまた見る間に膨らみ、掌に乗るくらいの大きさに成長した。
声を失ってそれを見守り、思わず一歩近づいた僕を、ニコはまだ血の滲む左手で制した。
「おっと。それは、お前さんは食っちゃいけないんだな」
どういうことだろう。首を傾げた僕に、ユーディは苦笑した。
「驚かないで。私も、他の人からなったものは食べられない。誰も自分の血からなったものしか食べられないのよ」
言いながら、彼女は指先にすでにあった傷を押し開き、一滴だけ血を落とした。地面からはまた赤い芽が覗き、それが細長く伸びて、ユーディの胸ほどの高さに止まり、赤い実をつけた。血が少ないせいか、ニコのものよりはいくぶん小ぶりだ。
「見た目はあまり変わらないけど、他の人のものを食べると、吐き出してしまうの。無理に食べれば、これも、死んでしまうんだと言われてる」
「だが、あんまり苦しいらしいんで、誰もまだ試したことがないんだな」
二人は別に、息を合わせるでもなく、それぞれおもむろに実を取り、囓り取った。
血が散った。
いや、血ではない。果実の汁が散っただけだ。赤くて、光って、少し粘度のある汁が。二人の口もとと頬に。
二人は何事もないように二口目を囓った。再び真っ赤なものが散った。
「お前さんもやってみるか?」
ニコは器用に右の指先だけでくるりとナイフを回し、丁寧にも逆手にしてから僕に手渡そうとした。
僕は震える手を伸ばしたが、それを受け取り損ねた。
いや、実は、払いのけようとしてしまったのを、辛うじて止めたのだ。
「おい、大丈夫か?」
「……大丈夫」
大丈夫。僕は自分に言い聞かせる。二人は恩人だ。僕だって、この先何も食べないという訳にはいかない。だから教えてくれただけだ。
「……今はいいよ」
「けど、腹減らないか」
「お水で充分。お腹いっぱい。それより、早く食べて。カーという人の所へ行こう」
「あ……ああ」
二人ともきょとんと不思議そうに僕を見ている。ニコの人のいい顔の、ユーディの綺麗な顔の、その口が真っ赤に染まっている事を、特に疑問に思っていないようだ。
ここでは、食事とはこういうものなのだろう。
例え僕にはそうだと思えなくても。
「ねえ、カーという人は、何でも知ってるって言ったよね」
そう尋ねると、ニコは赤く濡れた唇のままでまた明るく微笑んだ。
「そうさ。忘れてしまった事も、分からない事も、何でも聞いてみるといい」
「そうだね……」
その人は、この空が赤い理由も答えてくれるだろうか。この二人に問えば、きっとこう答えられるだろう。何言ってるんだ、空は赤いものじゃないか、と。