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 喩えるなら、人間の業の色。

 人の罪や、死、病、欲、疑い、苦しみや不安、といったものを、この色で表現することがあるのを僕は知っていた。

 迸り出たばかりの鮮血ではなく、乾き始めた、黒と褐色の混じる赤色。いいことには、使わない。もっぱら苦しく辛いことを表す。雫を垂らして跡などつければ、何かが差し迫っていることを表す。

 しかし、誰に対して、何を使って表すのか。

 それは、わからない。瞼の裏に仄かに不吉な像は浮かぶが、それが何か考えても出てこない。おおかた絵にでも描くのだろう。

 空はそんな赤色をしていた。

 一面に赤。雲も赤。太陽はやや鮮やかな赤。陰影のある赤い空は天高いにも拘わらず重々しく、劇場に降りた緞帳といった風情だ。

 地は淡く褪めた黄色の砂。手に取れば、透き通った砂の粒が光る。粒にはところどころ黒や褐色の染みがついている。海の砂のようだな、と僕は思った。そして確かに、波の音がずっと聞こえていた。この波の繰り返しを聞いているうち、僕の意識ははっきりしてきた。僕は目覚めたばかりのようだった。

 砂から身を起こすと、黄色い砂がぱらぱらと服から落ちた。僕は黒い服を着ている。この服に見覚えはない。もちろん、黄色い砂にも、赤い空にも。

 僕は自分の手を見る。これにも覚えがない。

 頬に手を当てる。これにも。

 そして僕は気付く。僕は、目覚める前に何をしていたかの記憶がない。

 僕は口に出して数えた。

 一日前。覚えがない。

 二日前。記憶にない。

 十日前。記憶がない。

 改めて手の爪と皺を眺める。僕は記憶がないのだ。この身体の記憶さえ。僕の名前、僕が何者かということも。

 それでも、空や大地がこんな色でなかった事くらいは、憶えていた。この砂漠はともかく……空は……明るい青色だったはずだ。

 微かに波の音。海、と僕は思った。水なら自分の姿が映る。ともあれ、僕は自分の顔を見たかった。

 立ち上がって砂を踏む。律儀にきゅっと音が鳴る。僕は靴さえ備えているのだ。一体どこでどう手に入れたものなのだろう。

 砂の丘の稜線に登ると、海はなだらかな下り坂の下にすぐ現れた。

 真っ赤な海。考えてみれば、空が赤いのだから当然だ。しかし、遠く水平線で空と海が赤く繋がるのを見て、胸がぐうっと音を立てて疼いた。血の海、という言葉が浮かんでくる。

 そして静かな、水遊び程度の控えめな海の音。もっとずっと遠くから聞こえるのだと思ったが、波音自体が静かだったのだ。

 僕は踵に体重を乗せて砂の丘を降り、少しばかり泡立つ波に靴先を浸した。

 波は寄せて引くのも控えめで、湖のようにも見える。しかし、手を浸して水をすくい、口に含めば、ちゃんと塩辛い。ただ、水は空のために赤いだけではなく、水自体も少し赤いようだった。

 空気が乾いているせいか先に顔を洗いたくなって、僕は再度海水を手にとって顔を撫ぜた。そして、水面を覗いた。

 これが、僕。

 肌は黄色く、頬骨は穏やかで、唇が薄く、顎が細い。僕は手の甲を見る。赤い水に映り込んでいるから、肌の色は実物と違って見えている。しかし、髪と瞳は、それでもはっきり判るほど黒い。服は単純な長衣を着ていて、それも黒い。そういえば靴も。

 困ったな、と思った。姿を見てみても、それが自分だったのかどうかは思い出せない。

 指を曲げてみれば、水面にいる黒髪の僕も指を曲げるのではあるが、……目覚める前の僕と、今のこの僕が、他人である事って、あるのだろうか?

 実物を確かめれば気分も変わるだろうかと、僕は前髪を一本つまみ、引き抜いた。

「!」

 とたん、声にならないほどの衝撃が、僕の額から胴体へと駆け抜けた。瞼の裏が白く閃く。痛い、と、頭が言葉を絞り出すが、喉からは息だけが漏れた。

 僕は二、三歩よろめき、波を泡立てて踏みとどまった。痛みは額と胴をぐるぐる往復した後に治まった。思わず頭を抱えていた手を僕はそっと降ろす。

 驚いたのは、痛みそのものではない。痛みとは、こんなに激しいものだったろうか? 髪の毛一本で、視界が真っ白になるほどの?

 気味の悪い違和感が胸に湧いてくる。まじまじと抜いた黒髪を見ていると、おおい、と遠くから声が掛かった。

「おーい、そこの。大丈夫かぁー」

 見れば、先ほど僕が越えた砂の丘の稜線に、男が一人立っている。砂の色のように薄い色の金髪を短く刈り込んでいるのが、遠目にも分かる。男は丘を降り、砂浜を駆けて僕に近づいて来た。彼は脚が速いらしく、ぼくが思ったよりもずっと速く波打ち際までたどり着いた。

「身体を洗うなら真水じゃないと……あれ、お前さん……?」

 彼は小走りのまま僕に駆け寄ると、まずちらりと手に視線を投げてから、僕の顔を見、怪訝な声を出した。近づいてみれば彼は体格が良く、僕より少し上背がある。彼は僕の二の腕に手をかけ、僕の顔をしげしげと覗き込んだ。

「……カー……?」

 聞き慣れないが、それは人の名のように呟かれた。彼は右から左から、何度も検分するように僕の顔を見詰めてから、ちょっと不躾だと気付いたのか、近づけていた顔を離した。

「いや、でも、カーは……さっき城で会ったところだよな?」

「あの、僕を知ってるんですか?」

 僕は一歩下がりながら問うた。え、と、男がきょとんと目を見開く。

「僕、自分が誰か分からないんです。あなたが知っているなら助かるけれど」

 男はちょっと混乱したようで、えーとかうーとか唸った後、再度僕の顔を見ながら尋ねた。

「お前さん、カーじゃないのかい?」

「わかりません、その人も記憶にない」

「いやあ、カーっていう名の、お前さんとよく似た……いや、どっちかって言うと、同じ顔の男がいるんだが」

「同じ顔……?」

 僕は思わず頬に手を当てる。

「けど、その男とは、さっき別の場所で会って、話をしてきたばかりなんだよ。だからお前さんは、別人だと思うんだが……それにしても、似てるなあ」

 彼は腕組みまで始めて、もう遠慮もなしに、じろじろと僕の顔と全身を見回した。

「いや、しかし、何か、違うな。雰囲気というか」

 おっと、と呟いて、彼は腕組みをほどいて手を差し出した。

「俺はニコっていうんだ。お前さん、自分が誰か覚えてないって?」

 出された手の意味がわからずに戸惑っていると、ニコは僕の手を取って、強引に握った。

「ほれ、握手。お前さん、名前は覚えてるのかい?」

「え……いいえ」

「そうかい、そりゃ困ったな」

 男は眉をひそめてから、まあ海から上がろうぜと、骨張った顔に人の良さそうな笑みを浮かべた。

 彼に従って波打ち際まで戻ると、彼は靴を脱いで中の海水を捨てた。僕は靴先を振り、それではとうてい中の水が出そうにないので、彼に倣って靴紐を解いて靴を脱いだ。

「そうだな、足も濡れちまったし、一旦村へ戻ろうか。お前さんの事、知ってる奴がもしかしたら誰かいるかもしれねえし」

 一度緩めた靴紐を締めるため、砂に屈んだ僕に、ニコはまた手を差し出してくれた。その手を取って僕は立ち上がる。

「その後、カーの城へ一緒に行こう。カーならきっと何か知ってる」

「その、僕と同じ顔の人……?」

「ああ、それでなくても、カーは何でも知ってるからな。お前の事も知ってるだろうさ」

 ニコは朗らかに笑った。そのカーという人は、随分尊敬されているのだなと思った。

 ニコが稜線の向こうを指さしながら歩き出すので、僕もそれについていく。

「村はすぐそこだよ。お前さん、どこから来たんだい。まさか海からじゃないよな」

「え……」

 記憶がないって言ったんだけどな。ニコはあまり気にとめていない様子でそう聞いた。

「覚えていないんですけど、目覚めたときには砂漠にいて」

「ああ、そりゃ、砂漠から来たでいいんだよ。海のやつらと俺たちとは、ちょっと折り合いが悪いもんでね、まあ、お前さんが海の奴じゃないことは見ればわかるんだが」

 ニコはそう言い、歩きながらまた僕を見た。今度は僕の頭と、服を見たようだ。

「真っ黒けの格好だからな、最初見たときは病気の奴かと思ったぜ」

「病気? 黒いのが?」

「全身まっ黒になる病気があるのさ。気をつけな、新入り」

「新入り」

「そう。新入りは久しぶりだから、村のみんなも喜ぶぜ」

 ニコのこの言葉に僕は少し安堵できたようだった。久しぶりとはいえ、僕のような者が、ここには時々現れるのだ。そして、村と呼ばれるところには他の人々がいて、少なくとも彼は、僕を受け入れている。

 人好きのする顔でニコに微笑まれると、胸にわだかまっていた違和感が、ふっと和らぐように思えた。

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