『代書屋のノーラは、追伸を別料金にします』
朝7時、ノーラが文具店マルタ堂の戸を開けると、帳場の叔母が帳簿から顔も上げずに言った。
「今日も閉店のあとのお客さん、見てやっておくれ。いつもありがとうね」
「はい」
返事は、考えるより先に出ていた。
代書屋のノーラは、客の本当に言いたいことなら、質問を3つすれば見つけられる。それなのに、自分の「いいえ」は、5年探しても見つからない。
奥の小さな机にインク壺を並べた。この町の代書の机は、店のいちばん奥にある。窓はない。そのかわり、通りから入ってくる客の声がよく聞こえる。昼でも、インクの色は灯りの下で見る。ノーラは時々、顔を上げて、窓があればいいのに、と思う。机の下では、叔母が朝いちばんに入れてくれた湯たんぽが、まだ温かい。
最初の客は、漁師の奥さんだった。海の向こうの町にいる息子へ、冬の毛布を送ったと伝えたいという。
「それだけでいいんですけど」
「それだけで、いいと思います。ただ、毛布は何色ですか」
「灰色」
「じゃあ、灰色の毛布、と入れますね。箱を開けた時に、ああこれだ、と思えるので」
奥さんは目を丸くして、それから笑った。
ノーラは丸くて小さい字で1通を書き上げ、読み上げた。
「それでお願い」
奥さんはうなずいた。頼まれたことは、これで全部だった。けれどノーラは、もうひと言尋ねた。
「あの、何かほかに、息子さんに言いたいことは? 手紙の後ろに、一言添えることもできます」
「そうねえ……あの子、足が冷えると腹を壊すのよ。だから毛布は半分に折って、足元に掛けなさい、って言いたいの」
「それ、短くして追伸にしましょうか。店では、追伸の分はいただきません」
「じゃあ、お願い」
ノーラは追伸を書き足して、もう一度読み上げた。奥さんは「それそれ」とうなずいた。
『追伸 足が冷えたら、毛布は半分に折って足元に。』
奥さんの長い言葉を、短く整えただけだ。それでも、手紙がぐっと母親の声になった。
代金は1通40ルク。奥さんは硬貨を置いて、「ありがたいねえ」と言って帰った。
店の札には、17時閉店とある。けれど、ノーラが最後の1通を書き終えるのは、たいてい19時を過ぎる。客は待っていてくれるし、追伸を頼む人は増えた。ノーラの給料は月に900ルクで、それは朝7時から17時までの分だった。
その先の時間が、どこにも数えられていないことを、ノーラは考えないようにしていた。考え始めると、手が止まってしまうからだ。
昼前、戸の鈴が鳴った。
背の高い男が、紙の束を抱えて入ってきた。袖に白い繊維がついている。川上の紙漉き工房の主、ギドだ。名前は町の誰でも知っているが、店に来たのは初めてだった。
「代書を頼みたい」
机の前に立つと、彼は1枚の紙を差し出した。大きな字で、こう書いてある。
『紙の値段を上げます。上げないと潰れます。』
「王都の文具商に送るんですか」
「ああ。10年、14ルクで卸してきた。去年から原料の値が上がって、利益がほとんど残らない」
「これは、ご自分で?」
「ああ。字が読みにくい、と先方に何度か言われた。納品書は、半分も読み取れないそうだ」
ギドは、悪びれずに言った。
「文面も、清書も、苦手なんだ。頼む」
「分かりました。値上げ後の値段は、いくらにしますか」
「16ルク」
「この手紙を出すことで、ギドさんがいちばん心配なのは何ですか」
「……取引先を変えられることだ。王都には、安い紙がある」
「では、変えられない理由を書きましょう。ギドさんの紙のいいところを、先方は何と言っていますか」
ギドは考え込んだ。
「厚くて、インクが裏に抜けない、と。反らない、とも。……3日かけて、ゆっくり干している」
ノーラはペンを取った。
『来月から、1枚16ルクにさせてください。原料が上がり、今の値段では続けられません。厚くて、裏に抜けず、反らない紙を、3日かけて干して作っています。この紙を作り続けるために、お願いします。』
読んだギドは、眉を寄せた。
「俺の言い方が、そのまま残ってる」
「直したほうがよかったですか」
「飾るな、と言うつもりだった。言わなくて済んだ」
ノーラは、手を止めた。
「追伸も、付けられます。たとえば、雨で納品が遅れる時の連絡方法とか」
「遅れたことはない」
「では、不要ですね」
「ああ。……追伸は、何のためにあるんだ」
「手紙を読み終えた人に、もう一度、笑ってほしい時とか。言い忘れたことを、そっと足す時とか」
「この手紙に、笑う場所はいらない」
「いらないです」
ギドは、わずかに口元を動かした。
「返事の宛先を、ここにしてもいいか。川上には、郵便が来ない。取りに来る日は、週に1回になる。水曜の夕方にする」
「叔母に聞いてきます」
預かり代として、叔母は月に5ルクを取ることにした。ギドは黙って、その場で払った。
2週間後の日曜日、王都から返事が届いた。
預かり物は、水曜に取りに来てもらう決まりだった。それでもノーラは、休みの日の昼に、川上の道を歩いて届けに行った。町の外れから、川沿いに30分。散歩のつもりだったと言えば、嘘ではなかった。
工房は水音の中にあった。濡れた木の皮の匂いがする。ギドは封を切り、手紙を読み、顔をしかめた。
「15ルクなら通す、と言っている。それから、納品書は読める字で出せ、と」
「15ルクは、足りませんか」
「足りる。ぎりぎりだが。……納品書は、俺がどうにかする」
「どうにかする、と言っても、字は」
「だから、困っている」
ノーラは笑った。
「雛形を作りましょうか。よく使う品名を先に書いて、数と値段の欄を空けておくんです。ギドさんは数字だけ書けば済みます」
そう言って、持っていた紙に枠を引き、ギドに確かめながら品名を書き入れた。ギドはそれを見て、「それは、いくらだ」と聞いた。
「いりません。これは私が、ここまで歩いてきたついでです」
「ついで、か」
彼は、それ以上は言わなかった。壁の目立つところに、雛形を貼った。
帰り際、彼は棚から、木の枠にはめた紙を1枚取り出した。
「便箋にする薄い紙を、作ろうとしている。試してくれないか。ペン先が引っかかる、と言う客は、いるか」
「います。私も、厚い紙は少し」
「そうか。なら、頼みたい。1枚につき20ルク払う。仕事として」
ノーラはペンを取った。1枚目は、インクが滲んだ。
「広がります。字が太くなります」
「分かった。次は2週間後に、作り直す。試してもらった紙は、これからも持って帰っていい。家でも使ってみてくれ」
20ルクを受け取った。思ったより、重かった。
彼は壁の帳面に何かを書き込んだ。のぞくと、字の判別がつかなかった。
「……それ、読めますか」
「自分では読める」
ノーラは、帰り道の川沿いで、少し笑った。
それから2週間後の日曜、2枚目の試し紙は、硬すぎた。ペン先がかりかりと音を立てて、紙に傷をつけた。
「削れてしまいます。字が走りません」
「叩きすぎたか。次は、もう少し柔らかく」
ギドは桶の水に手を入れたまま、言った。
「あと1枚、剥がしてからでいいか。昼にする」
「待ちます」
ノーラは窓際の椅子で、待った。彼の手つきは、見ていて飽きなかった。濡れた紙が、水の中から生き物のように持ち上がる。彼は鼻歌を歌っていた。ひどく調子が外れていた。
やがて2人は、川に面したベンチに座った。ノーラは持ってきたパンに、蜂蜜を塗った。ギドの昼は、黒パンと、塩辛い干し魚だった。
「それは、何を塗っている」
「蜂蜜です」
「絵の具の味がしそうだ」
「失礼ですね。食べてみますか」
彼は一口かじって、まじめな顔で黙った。
「……悪くはない。でも、魚の隣には置けない」
「その魚を、ひと口ください」
ノーラは、かじって、涙目になった。ギドは、声を出して笑った。思ったより大きな声で、本人も驚いたように口を押さえた。
「朝は、苦手だ」
彼は、笑いをおさめて言った。
「紙は夜に乾く。夜のほうが静かで、水の音がよく聞こえる。あんたは?」
「朝が好きです。まだ誰も通っていない通りに、戸を開ける時が。インクの匂いが、いちばんきれいなので」
「合わないな」
「合わないですね」
そう言ったのに、2人とも、その場を動かなかった。川の上を、風が渡っていく。ノーラは、仕事の話を1つもしないまま、1時間過ぎていることに気づいた。
「ここの2階の部屋が、来月空く」
ギドが、河原を見たまま言った。
「元は、父の帳場だった。窓があって、川が見える。机が1つ置ける。貸すなら、月に500ルクだ。仕事場だけで、住むところではない」
「どうして、私に」
「あんたが書く手紙は、紙の上で、人が話している。そういう人が、ここで書くところを、見てみたい。それと、客が来れば、紙も売れる。そう言うと商売の話になるが、両方本当だ」
ノーラは、すぐには答えられなかった。町から30分の道を、客は来てくれるだろうか。収入はどうなるだろう。けれど、窓から川の見える机という言葉が、胸の中で光っていた。
「考えます」
と、それだけ言った。
翌日の月曜、閉店の片づけをしていると、叔母が上機嫌で帳場から出てきた。
「役場の仕事、取ってきたよ。12月最初の水曜から1年契約。月に1,200ルク」
「役場の?」
「町の通知を、清書して発送する仕事。月・水・金の夜、19時から22時。あんたの時間をもらうよ。うちは助かるんだよ。今月も帳尻が苦しくてね」
叔母は悪い人ではなかった。夫を亡くしてから借金を背負い、店を守るために毎日帳場に座っている。5年前、字を書くことしか取り柄のなかったノーラに、「机ならあるよ」と言ってくれたのも、この人だった。それは分かっている。だから、すぐには何も言い返せなかった。ただ、夜が週に3日、自分の知らないところで決まったことだけが、静かに胸に落ちた。
その夜、ノーラは部屋の机に、1枚目の試し紙の裏を広げた。叔母に伝えたいことを書いてみようと思った。
ペンを持ったまま、1時間が過ぎた。紙は白いままだった。
客の言葉の中から、本当に伝えたいひと言を拾うのは、いつも迷わずできる。それなのに、自分のひと言は、いくら探しても出てこなかった。
契約を聞かされてから2度目の日曜、試し紙の約束はなかった。それでもノーラは、昼に川上の道を歩いた。
工房の戸を開けると、ギドが目をこすっていた。
「今日は、試し紙はないぞ」
「知っています。散歩です」
ギドは、何か言いかけて、やめた。それから、お茶を淹れた。夜通し漉いていたらしく、まぶたが重い。2人は川に面したベンチに座り、凍りかけた岸の草を眺めた。
「親父が、昔、この川の氷で……」
話の途中で、ギドの頭が、かくんと落ちた。そのまま10分ほど眠った。ノーラは、動かなかった。袖についた白い繊維が、息に合わせて揺れていた。もう少しだけ、このままでいたかった。
「……寝てたか」
「10分ほど」
「起こせばよかったのに」
「続きが聞きたかったので」
続きは、氷の上で転んだ父親の話で、特にたいした話ではなかった。ノーラは、叔母の契約のことは言わなかった。ギドも、聞かなかった。帰り道で、3時間、契約のことを一度も思い出さなかったと気づいた。
その週の水曜、ギドが店に来た。
郵便を取りに来る日だ。いつもは封筒を受け取ると、すぐに帰る。この日は18時を過ぎても、戸口のベンチに座っていた。
ノーラは、机で最後の客の話を聞いていた。息子に「ごめん」と言いたい、でも「ごめん」とは書きたくない、というおじいさんだった。戸のガラス越しに、動かない背中が見えた。
客が帰ったのは、19時を少し過ぎてからだった。
「待たなくてよかったのに」
「待っていない。夜は、俺の時間だ」
ギドは空を見て、それから店の時計を見た。何も言わなかった。それが、ありがたかった。
「今日は、誰の手紙を書いた」
「息子さんに謝りたいおじいさんです。でも『ごめん』は絶対に書かない、と言うので」
「どうやって」
「『あの時のパンは、おいしかった』を、3回書きました。喧嘩した翌朝、息子さんが焼いてくれたパンだそうです」
ギドは、声を出して笑った。
「それは、書いてあるのと同じだな」
橋のところまで、並んで歩いた。川の音が、夜のほうが大きい。ギドは欄干に手を置いた。
「ここから、俺は川上だ。……来週の水曜も、待っていていいか」
来る、ではなく、待っていていいか、と聞かれた。ノーラは少し黙ってから、答えた。
「次の水曜は、17時に終わらせます」
言ってしまってから、自分で驚いた。終わらせられるのか、分からない。
「そうか。じゃあ、17時にいる」
彼は暗い道を上っていった。ノーラは橋の上で、しばらく動けなかった。
契約を聞いてから3週間近く、言い出せないまま過ぎた。ノーラは日誌の隅に、店を出た時刻を書きつけた。18日の営業日のうち、19時を過ぎたのは13日だった。数字は、思っていたよりも静かに、そこにあった。
11月最後の日曜日、3枚目の試し紙ができていた。
「柔らかくして、叩く回数を減らした」
ノーラがペンを置くと、インクが紙の上を軽く走った。滲まず、引っかからず、字がすっと立った。
「書けます。きれいに」
ギドは、返事の代わりに、小さく息を吐いた。
「ギドさん。聞いてもらえますか。練習をしたいんです」
「ああ」
「叔母が、私の夜を、相談なしに役場の契約に入れました。12月から」
声に出したら、息が震えた。
「そんな店は、辞めてしまえ」
ギドが言った。ノーラは顔を上げた。
「それは、私が決めます」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「叔母は、5年、私を置いてくれた人です。夜の契約は断ります。でも、叔母が悪い人かどうかは、別の話です」
ギドは、しばらく黙って、それから頭を下げた。
「すまん。聞くだけにする」
「はい。……紙に、書いてみてもいいですか。代わりには、書かないでください」
「字が汚いから、頼まれても書けない」
ノーラはまた笑ってしまった。笑ったら、肩の力が少し抜けた。彼女は3枚目の試し紙に、ゆっくりペンを置いた。
最初の1行は、すぐに出た。
『17時に帰ります。夜の仕事は、引き受けません。』
2行目で手が止まった。ギドは何も言わず、お茶を淹れていた。
『1月の終わりで、この店を辞めます。』
3行目は、少し時間がかかった。
『川の見える窓辺の机で、自分の代書屋を始めます。』
書き終えると、紙の上に、自分の字が3行、並んでいた。いつもの丸くて小さい字なのに、知らない人が書いたもののように見えた。
「2階の部屋、2月から借ります」
「分かった。100ルク、取り置き代でもらう。2月の部屋代から引く。残りは2月に払ってくれ」
ノーラは財布を開け、硬貨を数えて置いた。貯金は1,300ルクある。12月と1月の給料も入る。部屋代と食費を払いながら、客の少ない最初の数か月を過ごすには、足りる計算だった。足りるのだ、と数えた自分に、少し驚いた。
翌朝、月曜の朝7時。ノーラは戸を開ける前に、叔母を呼び止めた。
「叔母さん。読みたいものがあります」
叔母は、帳簿から顔を上げた。ノーラは3枚目の試し紙を広げ、声に出した。
「17時に帰ります。夜の仕事は、引き受けません。1月の終わりで、この店を辞めます。川の見える窓辺の机で、自分の代書屋を始めます」
しばらく、店の中は静かだった。
「何を言ってるんだい。役場の契約は、もうしたんだよ」
「署名は叔母さんです。私は、相談されていません」
「あんたを置いてやったのは、あたしだよ。5年、食べさせて」
「はい。感謝しています。この店で、字を書く仕事を覚えました。湯たんぽも、毎朝、ありがとうございます。一度も欠かさなかったのを、知っています」
「……あれは、寒いと字が曲がるからだよ」
叔母は目をそらした。ノーラは声を落とさず、続けた。
「だから、1月の終わりまでは、朝の店を開けます。手順書を書いて、後の人が使えるようにします。でも、夜の仕事はできません」
「だったら、うちの店はどうなるんだい。あんたがいなきゃ、客が来ない」
叔母の声が、かすれた。
「あたしだって、店を潰したくないんだよ」
「分かっています」
長い沈黙のあと、叔母は帳簿の端を、指で叩いた。
「……契約の相談もしないで署名したのは、あたしだ。悪かったよ。腹は立ってるけどね」
謝られた、と気づくまでに、ノーラは少しかかった。
「役場には、明日、あたしが行く。夜の分は、役場の人に断る。断れなかったら、あたしがやる」
「お願いします」
ノーラは、頭を下げた。
12月最初の水曜は、役場の契約の最初の夜であり、ギドに「次の水曜は17時に終わらせます」と言った、その水曜でもあった。17時、ノーラは前掛けを外した。店には、閉店間際に入った客が1人いた。
「明日にしてもらうよ」
叔母が、客に言った。客は文句を言いながら帰った。叔母は、ノーラの顔を見なかった。
戸を出ると、ベンチにギドが座っていた。
「早いな」
「約束しましたから」
橋まで歩く間に、日がすっかり落ちた。ギドは何も言わず、歩く速さだけをノーラに合わせた。
帰ってから水を飲みに降りると、帳場に灯りがついていた。叔母が、不器用な大きな字で通知を清書していた。夜の分は叔母が引き受け、通知の枚数を減らしてもらったかわりに、契約は月800ルクになった、とあとで聞いた。叔母は、それ以上は言わなかった。
12月の日曜日、ノーラはパンと蜂蜜と、20枚の白いカードを持って工房へ行った。
2階の部屋は、がらんとして、窓が大きかった。ノーラは床に箱を置き、それを机にして、開業の知らせを書き始めた。
『2月から、川上の紙漉き工房2階で代書を始めます。町の外れから川沿いに30分。紙を運ぶ荷馬車が、午前10時と午後2時に客も乗せてくれます』
マルタ堂の客のうち、この人には来てほしいと思った20人の名前を、1人ずつ頭に浮かべた。
料金の下書きでは、追伸を5ルクと書いて消し、15ルクと書いて消し、また10ルクに戻した。カードの隅には、代書は1通40ルク、追伸は別に10ルクと書き入れた。これは誰にも聞かずに、自分で決めた。
途中でギドが、魚を焼いて持ってきた。大きな魚だった。皿の隅に、小さな壺が置いてある。
「蜂蜜?」
「町で買った。あんたが毎回持ってくるのは、悪い」
「ギドさんは、あまり好きではないのに、買ったんですか」
「自分では使わない。でも、あんたの分は置いておける」
ノーラは笑いをこらえて、魚の端をちぎった。大きな魚は、やはり塩辛かった。涙が出そうになったが、最後まで食べた。
食べ終えて、ノーラは3枚目の試し紙を取り出した。3行の下には、まだ余白がある。彼女は、ペン先をインクに浸した。
『追伸』
何年も、他人のために書いてきた言葉だった。手が止まりかけて、続けた。
『次の日曜も、パンを持ってきます。お昼を食べたあとも、ここにいたいです。』
紙を、ギドのほうへ滑らせた。
ギドは、読んだ。長い間、紙から目を上げなかった。
「……鉛筆を貸してくれ」
裏に、何か書いた。ミミズの行列のようだった。
「読めません」
「だろうな」
彼は紙を持ったまま、窓の外を見た。
「来てくれ。魚は焼く。蜂蜜は、少なめにしてくれ」
ノーラは、声を出して笑った。川の音と、笑い声が混ざった。
1月に入ると、ノーラは昼の休みのたびに、カードを1枚ずつ渡した。
渡す前の晩は、眠れなかった。叔母の店では無料だった追伸に、独立した途端に値段をつける人間だと思われたら。嫌な顔をされたらどうしよう。10ルクを5ルクに書き直そうとして、ペンを置いた。
最初に渡したのは、漁師の奥さんだった。
「追伸が10ルク? 取るのかい」
手のひらに、汗がにじんだ。
「はい。聞き取りの時間がかかる分を、いただきます。付けない手紙も、同じようにきれいに書きます」
奥さんは、カードを遠くに離して読み、それから近くに寄せた。
「あんたが決めたんなら、いいよ。あたしの追伸は長いからね。10ルクで足りるかい」
「足りない時は、また相談します」
「相談するのかい。商売下手だねえ」
奥さんは笑って、カードを胸元にしまった。
2人目は、「ごめん」と書きたくないおじいさんだった。
「追伸で金を取るのか。おれは、手紙だけでいい」
「はい。手紙だけで、大丈夫です」
「……考えとく」
おじいさんは、カードをポケットに入れて、帰った。来るのか来ないのか、分からなかった。分からないまま、ノーラは残りのカードを渡し終えた。
1月の最後の土曜日、ノーラはマルタ堂での最後の日を終えた。手順書は、隣の雑貨屋の娘に渡してある。3回、一緒に客の前に座った。
17時に、外套を着た。
「あの机は、持っていきな」
叔母が、帳場から言った。
「5年、あんたが座った机だ。代金は、100ルク取るよ。半分負けてやった」
「はい」
「あんたの部屋は、そのまま使いな。食費は、月に100ルク入れるんだよ」
「はい。入れます」
「それと、追伸の札は、10ルクに書き換えた。この前、あんたが奥で昼を食べてる間に、客に追伸を頼まれてね。話を聞いてまとめるのに、30分かかったよ。無料のままじゃ、後の子は閉店のあとも居残りだ」
札を見ると、叔母の大きな字で、『追伸 10ルク』とあった。ノーラが決めた数字と、同じだった。ノーラは、思わず笑った。
「客が多い日は、呼ぶよ。その分は、払う」
「はい。呼ばれたら、考えます」
叔母は、フンと鼻を鳴らして、机の下から湯たんぽを引っ張り出した。
「これも持っていきな。川の上は、冷えるだろう」
ノーラが受け取ると、まだ少し温かかった。叔母は帳簿に目を戻した。それでも、ノーラが戸を出るまで、顔は上げなかった。
2月最初の月曜、ノーラは朝9時に、窓辺の机にインク壺を並べた。
町外れの分かれ道には、小さな看板が立っている。『代書 川上 2階』。字はノーラで、板を打ちつけたのはギドだ。真っ直ぐに打った、と彼は言い張った。ノーラが定規を当てると、本当に真っ直ぐだったので、何も言わなかった。
最初の客は、午前10時の荷馬車で来た漁師の奥さんだった。
「息子から返事が来てね。毛布は、部屋で使ってるって。同じ部屋の人にも、貸してやったそうよ」
「いい返事ですね。何と答えますか」
「えーと、貸したなら、もう1枚送ってやりたい、って言いたいのよ。でも、そんなに金はないし」
「では、送ってやりたい気持ちだけ書きましょう。送る約束は、できる時に」
ノーラは1通を書き上げ、顔を上げた。
「追伸を足せます。10ルクです。付けますか」
「そうねえ。……じゃあ、付けとくれ。『灰色は、あんたの色だから、取られるんじゃないよ』って」
ノーラは、ペンを走らせた。窓の外で、川が光っていた。
午後2時の荷馬車には、おじいさんが乗っていた。
「手紙だけだ」
「はい。伺います」
息子に宛てた手紙は、パンの話から始まった。書き終えて、ノーラが何も言わずに待っていると、おじいさんは帽子をいじり、目をそらしたまま言った。
「……追伸は、いくらだ」
「10ルクです」
「パンの話を、もう1回書いてくれ」
ノーラは、ペンを走らせた。
客が帰ったあと、机の端に紙切れが置いてあるのに気づいた。ギドが、いつの間にか置いていったらしい。相変わらずの字だった。けれどノーラは、もう半分ほど、読めるようになっていた。
『日曜。魚。蜂蜜、少なめ。』
ノーラは、新しい紙を1枚取った。そして、返事の1行目に、こう書いた。
『魚は、小さいのをお願いします。』
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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