29
「知らない。それは……婚約者がいるのに私と付き合ってたの?」
「実際には会ってなかったらしいけどね。父親が決めたもので百合と付き合ってるから断っていたみたい」
「それなのになんで」
「鈴蘭って百合が昔から好きだった。それでわざわざ日本の高校まで来たのに、百合は本気で将来のことを考えてくれないとか言ってた」
桃を伝言役にして鈴蘭は何がしたいのか。
「そんなこと言われても」
「……鈴蘭は悩んでたよ。自分はいい親になれるのかどうか。ずっと自分の父と母を見てきたから子供が生まれたらどうしようとかをさ」
「それで婚約者のところに行った。どっちにしても親になることなら私でも他の人でも変わらないでしょ」
「百合は子供欲しい?」
「そりゃ欲しいけど」
「鈴蘭はいらないみたい。それもずっと悩んでたの」
「……婚約者って男性?」
「男性だよ」
「なら、どうして」
「親の敷いたレールを歩きたくなくて選んだ道なのに、気づけば正しい人生を歩んでいるかわからなくなってきた。私は父親に守られて、帰ってきて欲しい母親に相談しても決めるのは自分という言葉で突き放される……こんなこと私に言われても困るよ。もう、相談なんて聞き飽きたな……」
鈴蘭は私よりずっと強いと思っていたが内側は弱かった。
別れる時も言いたいことがある感じはしたが言葉にできなかったのか。
「一度も相談してくれなかった。言ってくれたら良かったのに」
「私にはわからない……不安な時があった。そんな時に楽しくアイドルをやってる百合に相談なんてできるわけない。そうでしょ?」
鈴蘭は卑怯だ。
桃にすべてを言わせて逃げた。
「私が悪いって言いたいの……」
「こんなのに正解なんてない。私は一度好きになった百合だから言ってるの」
桃が急に私を抱きしめると頭を撫で始める。
「自分を嫌いにならないで。私はいつでも友達だから」
「ありがとう。私を好きでいてくれて」
「私こそ、前さ……百合に関係あるのかとか言ったの。ちょっと失礼だったよね。本気で彼と付き合った時、心配してくれたのに」
「そうだよ、心配した。今はどうなの?」
「一度だけ翔太先輩とデートしたよ。今でもよくわかんない。私がどうしたいのかなんて……あれ? 私が相談してる?」
「あ、そうみたい」
授業が始まっても気づかずに桃と話を続けた。
帰り際に鈴蘭を見たがすれ違う時に挨拶をする程度で世間話もしない。教室を出て行く桃と帰ろうとしたが撫子の姿を見て気が変わる。
トイレで桃が彼氏と帰ることが増えたとか言っていたのを思い出す。
「撫子、一緒に帰る?」
頷く撫子の周囲には誰もいない。
「菫いないんだ。椿も」
「菫は家の用事で椿は仕事があるらしい。百合は仕事ないの?」
「今はない」
帰り道は好きな漫画や最近流行りの音楽の話をした。私が話すばかりで撫子のことは何も知らないことに気づき「趣味とかってあるの?」と聞く。
「このネイルとか好きなんだ。他はアロマテラピーとかだね。マグカップにお湯を入れて、そこに一滴垂らして香りを嗅ぐ。最近はやらないけど、前はよく香りを楽しんでたな」
「私にはできないよ」
「そんなことない。私だって教えられたことをやってるだけ。ネイルとかやってみる?」
「やりたい!」
「今度私が教えてあげる」
「ありがと。嬉しいな」
私は撫子の綺麗な顔を見つめる。
「そういえばモデルってなんでやってるの?」
「友達がやったほうがいいって言ってたから試しに挑戦してみたんだ」
「それで成功してるんだからすごいね」
「そんなことないよ」
不意に撫子が立ち止まる。犬小屋の中で首輪に繋がれた犬が私達を吠えることもせず見つめていた。彼女は自分の首を触ると私を見て「帰ろう」と言って歩き出す。
「大丈夫?」
「私は大丈夫。あの犬、前はよく吠えてたのに最近元気ないのかな」
「撫子のこと慣れたんじゃない?」
「違うよ。元気がなさそうだった」
「じゃあ、言ったほがいいかな」
「それで犬が助かるならね」
「助かるよ」
「ふ……あ、ごめんね」
一瞬笑いそうになってから撫子は真顔になる。
その表情変化に僅かな恐怖を感じた。
考えてみれば中学時代は撫子の周りは常に誰かがいた。今日は私一人で一緒に帰っている。本当に何事もなく終わるのか。
駅に入ってからも撫子のことを考えた。
桃からも撫子について注意されていたが私は危険だと思っていなかった。それなのに今話をしただけで心のどこかで彼女を危険だと本能が訴えかけている。
「電車……乗らないの?」
「乗る」
撫子と接していても特に変わったところはないはずなのに変な感じがする。
「ネイル、今日やろっか。今度とは言ったけど、百合も仕事ないみたいだし」
「それはいいけど」
撫子の家に到着すると家の中には誰もいなかった。
「うちの親、今日は遅いみたい」
大きな窓や白い壁に天窓が驚くほど明るく感じて気持ち良く感じる。
撫子の広い部屋には淡い色の家具が置いてあった。カーテンやベッドに至るまで統一感のある色をしている。
「鈴蘭とはどう?」
「どう? 桃から聞いてないの? 別れたよ」
「ごめん」
「いや、謝るようなことじゃないから……よく考えたらさ。よく考えなくても恋人がいるのに他の女の子と遊ぶとか。恋人が見てるのに他の女の子とキスをするとか……やっちゃ駄目なことばかりしてきた。振られて当然だよ」
「それでも浮気したわけじゃないでしょ」
「そう思われた時点で浮気と変わらない。元々鈴蘭も不満があったんだと思う。それが積み重なって今の状態になる。相手のことを深く考えもしなかった……後悔ばかりだよ」
「あっさり受け入れるんだ」
「男の婚約者もいるみたいだし、私じゃ無理だったよ」
「そんなの勝手だと私は思う。こうして捨てられて……嫌な奴じゃん」
「仕方ないよ。鈴蘭が何もかも悪いで片付けるのは気楽だけど、私にも良くないところがあったのに文句ばかりだと……ねえ?」
私が撫子に笑いかけるも彼女は不満そうで天井を睨みつける。
「……撫子? 私は無理に笑ってるわけじゃない。既に泣いたし、色々と話を聞いてもらった。もうね。終わったことだから」
「慰めはいらない。そんなかっこつけ必要ないでしょ」
「そこまでは言ってないって」
私が何をしても彼女は怒ってくれそうな雰囲気があった。
「あ! 撫子! ネイルについて教えて!」
「え、ああ……そうだったね。こっち来て」
撫子に脱衣所連れられると持っていたやすりで彼女に爪の形を整えてもらう。丸いプラスチックの桶にお湯を入れると彼女は熱さを確認する。
「入れてみて」
撫子が自分と私の手を同時にお湯へと入れる。
「……あったかい。これってネイルに必要?」
指で私の手の甲をなぞりながら彼女は「正確にはマニキュアだけど……まあ、別に呼び方はどうでもいい。必要なことだよ」と言って私の目を真っ直ぐ見る。
「爪はお手入れしないと駄目だからさ」
撫子が私の手をお湯から取り出した。濡れている私の手を包み込むようにしながら彼女は「綺麗な手」と呟く。




