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第4話 月下の咆哮

 月が雲間から顔を出すと、古戦場の錆びた鎧が不気味に光った。折れた槍の穂先が草むらから突き出て、まるで墓標のように見える。風が吹くたびに、どこからか金属のこすれる音が聞こえてくる。


 この古戦場の歴史は古い。俺の記憶にある世界史の教科書に載っていた、「黄金戦争」の跡地だ。三百年前、ドラゴン族と人間の王国が最後の決戦を行った場所。当時の王は「ドラゴンの血は呪われている」と宣言し、一族の根絶を命じた。その結果がこれだ。勝者のない戦いの痕跡が、今も生々しく残っている。


「なんだか気味が悪いな、この場所」


 レイナが小声で呟きながら、無意識に俺の袖を軽く引っ張った。いつもの軽口とは違う、本当に不安そうな声だった。彼女の指先が微かに震えているのに気づく。


「古戦場だからな。昔ここで多くの人が死んだんだろう」


 俺は刑事時代の現場経験から、こういう場所の空気を知っている。死者の怨念なんて信じちゃいないが、人の血が流れた場所には独特の重さがある。


 アリアは黙って歩いていたが、その足取りがいつもより重い。彼女の祖先が死んだ場所を歩いているのだ。どんな気持ちなのか、想像に難くない。


「アリア、大丈夫か?」


「…大丈夫だ」


 そう言いながらも、彼女の声には微かな震えがあった。時折振り返って俺たちの様子を確認しているのは、恐らく気を紛らわせるためだろう。


「黒崎」


 アリアが急に立ち止まった。


「どうした?」


「…匂いがする。血の匂いと…魔術の残滓。そして…」


 彼女の鼻がぴくりと動く。動物的な感覚の鋭さに、俺は改めて彼女がドラゴンなのだと実感する。


「そして?」


「悲しみの匂い。この場所で死んだ者たちの」


 アリアの瞳が一瞬濡れたように見えた。ドラゴンは他の生き物の死を感じ取ることができるのだろうか。それとも、同族の死を感じているのか。


「新しい血の匂いもある」


「新しい?」


「いや、古い。でも…一年以内」


 アリアの眉が寄った。何かに集中している表情だ。


「この場所で儀式が行われた痕跡がある」


 レイナが「うげ」と顔をしかめた。


「儀式って、まさかカルトの?」


「可能性は高い。ドラゴンの血で穢れた土地を『浄化』しようとしたのかもしれない」


 アリアの言葉に、俺は愕然とした。彼女の祖先が死んだ土地を使って、彼女自身を狙う儀式を行うとは。アシュヴィンという男の残酷さが見えてくる。


 俺は周囲を見回した。刑事の勘が警鐘を鳴らしている。この古戦場は偶然通りかかった場所じゃない。俺たちを誘い込むためのものかもしれない。


 地面に足跡が残っている。新しいものだ。少なくとも五、六人の男が、最近ここを歩いた跡がある。足跡の深さと間隔から、全員が武装していることが分かる。


 その時だった。


 ざわり、と草むらが揺れた。風ではない。明らかに何かが潜んでいる。


「三人とも、背中合わせに」


 俺の指示に、アリアとレイナが素早く従った。三角形の陣形を作り、死角をなくす。


「何匹いる?」アリアが小声で聞いた。


「まだ分からん。だが…」


 草むらの向こうから、金属音が聞こえてきた。武器を持った人間の足音だ。歩幅が揃っている。訓練された軍人か、それに近い集団だ。


「少なくとも五人はいる。全員が魔術強化の装備を身につけている」


「へえ、さすが元刑事」レイナが感心したような声を出した。「でも、どうして分かるの?」


「足音のリズムと、装備の音。それに…」


 俺は地面を指差した。


「足跡を見ろ。左足が若干深い奴が二人いる。利き手が右で、剣を腰の左側に下げている証拠だ。残り三人は両手利きか、弓使いだろう」


 レイナが「うわあ」と小さく呻いた。


「なんか、本格的に怖くなってきた」


 だが、その言葉とは裏腹に、彼女の手は既に腰のロープに掛かっている。レイナなりに戦闘の準備をしているのだ。


 俺たちを囲むように、黒いマントを着た人影が現れた。顔は深いフードで隠れているが、手にした短剣が月光を反射している。その刃に刻まれた紋章を見て、俺は息を呑んだ。


 黒い蛇と金の王冠。アシュヴィンの紋章だ。


「ドラゴンの血を引く者よ」


 リーダーらしき男が重々しい声で言った。声に魔術的な響きがある。恐らく、声を変える魔術を使っているのだろう。


「我らが主、アシュヴィン様の御前に出頭せよ。さすれば、苦痛なく逝かせてやろう」


「随分と親切なことで」


 レイナが皮肉っぽく笑った。緊張しているはずなのに、いつものように軽口を叩く。彼女なりの対処法なのだろう。だが、その笑顔の端が微かに引きつっているのを俺は見逃さなかった。


「でも、ちょっと聞きたいことがあるの」


 レイナが一歩前に出た。


「あんたたちの『主』って人、なんで血なんかにこだわるのかしら?血なんて、流しちゃえばみんな赤いじゃない」


 刺客たちがざわめいた。レイナの軽薄な問いに、彼らは戸惑っているようだ。


「愚問だ」リーダーが吐き捨てた。「アシュヴィン様の偉大なる理想を理解できぬ下等な人間に、説明する義務はない」


「へえ、偉大な理想ね」


 レイナの声に、いつもの軽やかさとは違う、鋭い響きがあった。


「私もさ、昔は盗賊やってて、偉そうな奴らの財布をちょろまかしてたのよ。そういう奴らって、みんな同じこと言うの。『お前たち下等な人間には分からない』ってね」


 アリアが小さく「レイナ…」と呟いた。


「でもさ、結局そういう奴らって、自分が惨めだから他人を下に見たがるだけなのよね。違う?」


 リーダーの殺気が高まった。


「貴様…!」


「図星だったかな?」


 レイナがニヤリと笑った。だが、俺にはそれが虚勢だということが分かる。彼女は怖がっている。それでも、俺たちのために敵を挑発している。


 俺は刑事時代の交渉術を思い出した。犯人を追い詰める時、感情的にさせることで隙を作るテクニックがある。レイナは無意識に、それをやっているのだ。


「レイナ、よくやった」俺が小声で言った。「でも、そろそろ下がれ」


「分かってる」


 彼女が俺の隣に戻ってきた。その時、俺は彼女の手が震えていることに気づいた。強がっているが、本当は怖いのだ。それでも、仲間のために戦おうとしている。


「貴様らに選択肢はない。抵抗すれば、より多くの苦痛を味わうことになる」


 リーダーが短剣を構えた瞬間、他の刺客たちも一斉に武器を抜いた。


「アリア」俺は小声で言った。「変身の準備を。でも、俺の合図まで待て」


「分かった」


 彼女の声に迷いはなかった。俺を信頼してくれている証拠だ。だが、その声の奥に、何か別の感情が混じっているのを感じた。恐怖?いや、違う。


「黒崎」


「何だ?」


「もし私が…もしドラゴンの力を制御できなくなったら」


 アリアの声が震えていた。


「お前たちを巻き込んでしまうかもしれない」


 俺は振り返って、彼女の瞳を見つめた。そこには深い不安があった。


「大丈夫だ」俺は断言した。「俺が君を信じている。君も自分を信じろ」


 アリアの瞳が揺れた。


「でも、私は…」


「君はアリアだ。ドラゴンである前に、俺の大切な仲間だ」


 その言葉に、アリアの表情が変わった。不安が消え、代わりに決意が宿った。


「…ありがとう」


「レイナ、例のロープは?」


「もちろん準備万端。でも、本当に大丈夫?相手は五人よ」


「六人だ」


 俺は左手の親指で後方を指した。レイナが振り返ろうとするのを、俺は目配せで制した。


「後ろにもう一人いる。弓を持ってるな。恐らく、毒矢だ」


 刺客たちは俺たちの会話を聞いて、焦りを見せ始めた。作戦がバレたと思っているのだろう。だが、俺の狙いは別のところにある。


「貴様、何者だ?」リーダーが警戒心を露わにした。


「ただの通りすがりだ」


 俺はゆっくりと両手を上げた。降参のポーズに見せかけて、実は攻撃の準備をしている。


「だが、一つ聞きたいことがある」


「何だ?」


「アシュヴィンは、なぜ世界を憎む?」


 リーダーが困惑した。恐らく、こんな質問をされるとは思っていなかったのだろう。


「…愚問だ」


「愚問じゃない」俺は続けた。「俺は刑事だった。多くの犯罪者を見てきた。誰にでも動機がある。憎しみにも理由がある」


「貴様に何が分かる!」


 リーダーの声に感情が込もった。これは想定外だ。この男、アシュヴィンの事情を知っている。


「アシュヴィン様は…アシュヴィン様は、妹君を失われたのだ!」


 周囲の刺客たちがざわめいた。リーダーが口を滑らせたことに、彼らは驚いている。


「妹を?」


「愚かな貴族どもの権力争いで!たった十歳の少女が!」


 リーダーの声が震えていた。


「アシュヴィン様は、妹君を守るために全てを捨てられた。だが、間に合わなかった!」


 俺は息を呑んだ。十歳の妹。それが、アシュヴィンが世界を憎む理由なのか。


「だから、この腐った世界を浄化されるのだ!妹君が笑って暮らせる、美しい世界を作るために!」


 アリアが小さく呻いた。彼女も、アシュヴィンの動機を理解したのだろう。


「でも、それは違う」


 俺は静かに言った。


「死んだ者は帰ってこない。世界を破壊しても、妹は戻らない」


「黙れ!」


 リーダーが短剣を振り上げた瞬間、俺は動いた。


「今だ!」


 アリアが瞬時にドラゴンの姿に変身する。黒い鱗が月光を受けて、まるで鎧のように輝いた。だが、今度は違った。彼女の瞳に迷いはない。俺への信頼が、彼女を強くしている。


 彼女の咆哮が古戦場に響き渡る。その声には、祖先への敬意と、現在への決意が込められていた。


 レイナが素早くロープを投げ、最も近い刺客の足を絡めとった。


「よっと!」


 彼女の軽やかな声とは裏腹に、刺客は派手に転倒した。その瞬間、レイナの表情から恐怖が消えた。戦闘が始まれば、彼女は迷わない。


 俺は刑事時代に覚えた格闘術で、リーダーに突進した。相手の短剣を掴み、関節を決める。だが、魔術強化された刃は思ったより重い。


「ぐあっ!」


 リーダーが膝をついたが、まだ他に四人いる。


 後方の弓使いが矢を放った。俺に向かって飛んでくる矢を、横に転がってかわす。矢が地面に刺さった瞬間、緑色の煙が上がった。毒だ。


「黒崎、危ない!」


 アリアの炎が弓使いを包んだ。悲鳴と共に、一人目が戦闘不能になる。だが、彼女の炎は殺すためのものではなかった。気絶させるだけの、絶妙な火力調節。


 残り三人の刺客が、今度は連携して攻めてきた。一人がアリアの注意を引き、残り二人が俺とレイナを狙う。


「レイナ、左!」


「分かってる!」


 彼女が短剣で相手の攻撃を受け流す。素早い動きで、相手の懐に潜り込み、柄頭で顎を打ち上げた。


「やるじゃない、私!」


 レイナが自分で自分を褒めながら戦っている。恐怖を紛らわせているのだろう。


 俺も相手の攻撃をかわしながら、カウンターの拳を放つ。刑事時代に身につけた技術が、今でも体に染み付いている。


 だが、相手も手強い。魔術で強化された短剣は、普通の武器より重く、威力も高い。しかも、この男は左利きだ。俺の読みが当たっていた。


 相手の一撃が俺の左腕をかすった。布が裂け、血が滲む。


「くそっ」


「黒崎!」


 アリアが俺の負傷に気づいて、激しい怒りを見せた。ドラゴンの瞳が赤く光る。


「待て、アリア!」


 俺は彼女を制した。怒りに任せて力を使えば、制御を失う可能性がある。


「この程度、どうってことない」


 俺は血を拭いながら言った。実際、浅い傷だ。問題ない。


 だが、アリアの怒りは収まらなかった。彼女の体から、熱気が立ち上る。


「私の…大切な人を傷つけるな」


 その言葉に、俺は驚いた。大切な人?


 アリアの炎が残りの刺客たちを包んだ。だが、今度も殺さない。彼女は怒りの中でも、理性を保っていた。俺への信頼が、彼女を支えているのだ。


 あっという間に戦闘は終わった。倒れた刺客たちは気を失っているが、生きている。


 古戦場に静寂が戻る。月光が、俺たちの勝利を祝福するように降り注いでいた。


「みんな、怪我はないか?」


 俺が確認すると、レイナが元気に手を振った。


「こっちは大丈夫。でも、あんたは?」


「この程度なら問題ない」


 アリアが人間の姿に戻り、俺の腕を見つめた。その瞳に涙が浮かんでいる。


「…すまない。私のせいで」


「何を言ってる。俺たちは仲間だろう」


 俺がそう言うと、アリアの頬がわずかに赤くなった。月光のせいではない。確実に、彼女は頬を染めている。


「そうね、仲間…」


 彼女が小さく呟いた。その声には、いつもの冷たさではなく、温かみがあった。だが、同時に複雑な感情も混じっている。仲間以上の何かを感じているのだろうか。


 レイナが倒れた刺客たちを調べている。


「おお、これは興味深い」


 彼女が革装の魔術書を取り出した。


「何が書いてある?」


 俺が近づくと、レイナがページをめくりながら説明した。


「『古代遺跡の祭壇』『血の鍵』…なんだか物騒な言葉が並んでるわね」


 アリアも覗き込んだ。


「これは…古代語だ。私なら読める」


「読めるのか?」


「ドラゴンは長寿だからな。古い言語も覚えている。それに…」


 アリアの表情が暗くなった。


「これは、私たちドラゴン族の文字でもある」


 俺とレイナが顔を見合わせた。ドラゴン族の文字?


「つまり、この魔術書は…」


「恐らく、私たちの祖先が残したものだ。それを人間が悪用している」


 アリアが魔術書を受け取り、真剣な表情で読み始めた。その横顔に、深い悲しみが浮かんでいる。


「『邪神の器は血を求め、遺跡で目覚める』…『ドラゴンの血こそが封印を解く鍵』」


「つまり、アリアの血が狙われてる理由は?」


「邪神を復活させるため」アリアが重々しく答えた。「私の血には、古代の力が宿っている。それを使えば、封印された邪神を目覚めさせることができる」


「なるほど、それでアシュヴィンが」


 レイナが膝を打った。


「でも、なんで邪神なんか復活させたいのかしら?さっきの話だと、妹のためって言ってたけど」


「邪神の力で世界を作り直すつもりなのだろう」アリアが苦々しく言った。「だが、邪神の力は破壊しかもたらさない。新しい世界など作れるはずがない」


 俺は刑事時代の経験から、犯罪者の心理を推理してみた。


「アシュヴィンは過去に大きな失敗をしている。十歳の妹を救えなかった」


「それが動機?」レイナが首をかしげた。


「復讐だ。世界に絶望し、全てを破壊して作り直そうとしている。だが、本当は…」


 俺は少し考えてから続けた。


「本当は、自分自身を許せないんだ。妹を救えなかった自分を」


 アリアが俺を見つめた。


「どういう意味だ?」


「世界を憎むことで、自分の無力さから目を逸らそうとしている。でも、どれだけ世界を破壊しても、妹は戻らない。自分の罪悪感も消えない」


 俺の推理に、アリアが頷いた。


「似たような話を聞いたことがある。権力争いで家族を失い、狂ってしまった貴族の話を。でも…」


「でも?」


「その貴族は、最後まで妹を愛していた。歪んだ愛だったが」


 レイナが「なんか複雑ね」と呟いた。


「悪い奴だけど、可哀想でもあるっていうか」


「だからこそ、止めなければならない」俺が言った。「彼の苦しみを理解した上で」


 アリアが俺を見つめた。


「黒崎は、アシュヴィンを救おうとしているのか?」


「救えるかどうかは分からない。だが、試す価値はある」


「なぜそう思う?」


「俺も、かつて同じような絶望を感じたことがあるからだ」


 俺は自分の過去を振り返った。部下を失った時の無力感。世界を恨みそうになった瞬間。


「でも、俺には君たちがいる。アシュヴィンには、もう誰もいない。だからこそ、俺たちが…」


「俺たちが、彼の最後の希望になる、ということか」


 アリアの声に、新たな決意が込められていた。


「そういうことだ」


 レイナが「うわ、格好つけちゃって」と笑ったが、その目は少し潤んでいた。


「でも、まあ…悪くないかも、そういうの。私も昔、誰かに救われたから」


 アリアは何も言わなかったが、俺の方を見つめ続けていた。その瞳には、いつもの警戒心ではなく、別の感情が宿っていた。


 信頼?それとも…


 風が吹いて、彼女の黒い髪が揺れた。月光に照らされた横顔が、とても美しかった。


「でも、もし対話が失敗したら?」レイナが心配そうに聞いた。


「その時は戦う」俺は迷いなく答えた。「君たちを守るためなら、俺は何でもする」


 アリアの瞳が大きく揺れた。


「黒崎…」


「何だ?」


「あなたは、私が人間ではないことを気にしないのか?」


 突然の質問に、俺は戸惑った。


「なぜそんなことを聞く?」


「ドラゴンの血を引く私は、人間にとって災いの象徴だ。私の一族は、人間に恐れられ、憎まれ、滅ぼされた」


 アリアの声が震えていた。


「だから、私は人を信じることができなかった。でも、あなたは…」


「俺にとって、君は君だ」俺は素直に言った。「ドラゴンだろうが人間だろうが関係ない。君の心が美しいことを、俺は知っている」


 アリアの頬に涙が流れた。


「私は…私は、あなたを失うのが怖い」


 その言葉に、俺の胸が熱くなった。


「俺も同じだ」


 俺は彼女の手を取った。


「君を失いたくない。君の笑顔を守りたい」


 アリアの瞳が潤んだ。


「ありがとう」


 今度は、はっきりと聞こえた。彼女の感謝の言葉が。そして、その奥にある、もっと深い感情も。


 レイナが「あー、もー!」と大きな声を出した。


「あんたたち、いい雰囲気になってるところ悪いけど、魔術書の続きがあるわよ!」


 俺たちは慌てて手を離した。


「何が書いてある?」


「えーっと…『遺跡の在り処』と『儀式の日程』。あと…『最終段階:真の浄化』?」


 アリアが魔術書を受け取り、詳しく読んだ。


「これによると、三日後に遺跡で大規模な儀式が行われる予定だ」


「三日後?」


「そう。そして、その儀式が成功すれば…」


 アリアの顔が青ざめた。


「邪神が完全に復活し、この世界は終わる」


 俺たちは顔を見合わせた。


「つまり、あと三日しかないってこと?」


「そういうことだ」


 俺は魔術書の地図のページを指差した。


「この印は何だ?」


「遺跡の在り処を示している」アリアが説明した。「ここから東に三日の場所にある」


「行くしかないわね」レイナが決意を込めて言った。


「危険すぎるんじゃないか?」


「危険だ」俺は素直に認めた。「だが、ここで逃げていては、いずれもっと大きな危険に巻き込まれる。それに…」


 俺はアリアを見つめた。


「アシュヴィンと直接話すチャンスでもある」


 アリアが立ち上がった。


「黒崎の言う通りだ。逃げていても、事態は悪化するだけ」


「分かったわ」レイナが諦めたようにため息をついた。「でも、今度は作戦をちゃんと立てましょうね」


「もちろんだ」


 俺たちは倒れた刺客たちを木に縛り付け、古戦場を後にした。遠くで狼の遠吠えが聞こえる。


 歩きながら、俺は考えていた。アシュヴィンという男について。彼の過去について。そして、俺自身について。


 俺も、かつて絶望の淵にいた。部下を失った時、世界を恨んだ。だが、俺には支えてくれる人がいた。アシュヴィンには、いなかった。


 もし俺が彼の立場だったら、同じ道を歩んでいたかもしれない。その可能性を考えると、胸が重くなる。


「黒崎」アリアが歩きながら言った。


「何だ?」


「さっき言っていた『対話』について」


「ああ」


「本当に可能だと思うのか?アシュヴィンと話し合いで解決することが」


 俺は少し考えてから答えた。


「正直に言うと、分からない。だが、試す価値はある」


「なぜそう思う?」


「彼が完全に狂っているなら、あんな計画的な行動は取れない。妹への愛も、歪んではいるが本物だ。まだ人間らしい感情が残っているということだ」


 アリアが黙って歩いている。俺の言葉を考えているのだろう。


「でも、黒崎」


「何だ?」


「もし、あなたが彼と同じ立場だったら…もし、私があなたの大切な人を失う原因になったら…あなたは私を許せるか?」


 突然の質問に、俺は足を止めた。


「なぜ、そんなことを聞く?」


「私のせいで、これから多くの人が危険にさらされる。私がいなければ、邪神は復活できない。私が死ねば…」


「駄目だ」


 俺は強い口調で言った。


「そんなことは考えるな」


「でも…」


「君が死ぬことで問題が解決するなら、アシュヴィンはとっくに君を殺している。彼が君を生かしておくのは、儀式に生きた血が必要だからだ」


 アリアの表情が暗くなった。


「つまり、私はどちらにしても…」


「いや、違う」


 俺は彼女の肩に手を置いた。


「君には第三の選択肢がある」


「第三の?」


「戦うことだ。俺たちと一緒に」


 アリアの瞳が揺れた。


「でも、私の力は破壊的だ。制御を失えば、あなたたちまで…」


「信じろ」俺は彼女の瞳を見つめて言った。「君の力は、君の心が決める。君が守りたいと思うなら、その力は守るためのものになる」


「本当に、そう思うか?」


「ああ。俺は君を信じている」


 その時、レイナが「おーい」と声をかけてきた。


「あんたたち、また深刻な話してるの?もう少し軽く考えなさいよ」


「軽くって、世界の運命がかかってるのよ?」アリアが呆れたように言った。


「だからよ」レイナがニヤリと笑った。「世界の運命なんて重すぎるでしょ?私たちにできることは、目の前のことを一つずつやるだけ」


「目の前のこと?」


「そ。まずは遺跡に着くこと。それから、アシュヴィンって人と話すこと。その次のことは、その時考えればいいじゃない」


 レイナの楽観的な言葉に、俺は少し気が楽になった。


「レイナの言う通りだ」


「でしょ?」レイナが得意そうに笑った。「それに、私たちには秘密兵器があるもの」


「秘密兵器?」


「黒崎の『推理力』よ。きっと、アシュヴィンの弱点も見抜けるはず」


 俺は苦笑いした。


「そんな大袈裟なものじゃない」


「謙遜しちゃって」レイナがウィンクした。「でも、本当に頼りにしてるからね」


 アリアも小さく笑った。


「レイナの楽観主義も、時には役に立つな」


「あら、褒めてくれるじゃない」


 三人で歩きながら、俺は改めて思った。この二人がいるから、俺は戦える。一人では絶対に無理だった。


「ねえ、黒崎」レイナが急に真面目な顔になった。


「何だ?」


「もしアシュヴィンが改心しなかったら…本当に戦うのよね?」


「ああ」


「殺すかもしれないのよ?」


 俺は少し迷ってから答えた。


「できれば、殺したくない。だが…君たちを守るためなら」


「やるのね」


「やる」


 レイナが深く頷いた。


「分かった。私も覚悟を決める」


 アリアも決意を込めて言った。


「私も、もう逃げない」


 俺たちは夜明けまで歩き続けた。遺跡へ向かう道のりは険しいが、三人でいれば大丈夫だ。


 東の空が薄っすらと明るくなってきた。新しい一日の始まりだ。


「おい、あれを見ろ」


 俺が指差した先に、小さな村が見えた。


「休憩できそうね」レイナが安堵のため息をついた。


「でも、警戒は怠るな」俺が注意した。「カルトの手が及んでいる可能性もある」


「分かってる」


 村に近づくと、妙に静かなことに気づいた。朝の時間帯なのに、人の気配がない。


「おかしいな」


「何か不安ね」アリアが呟いた。


 村の入り口に、小さな看板が立っていた。古い文字で何か書かれている。


「『旅人よ、ここで休め。だが、日没前に去れ』…なんだこれは?」


 レイナが首をかしげた。


「呪いでもかかってるのかしら?」


「呪いではない」アリアが看板を詳しく調べて言った。「これは…警告だ」


「警告?」


「この村には、何か危険なものがいる。恐らく、夜になると現れる」


 俺は辺りを見回した。確かに、村の雰囲気が普通じゃない。


「とりあえず、情報収集をしよう」


「賛成」


 俺たちは慎重に村に入った。すると、一軒の宿屋から煙が立ち上っているのが見えた。


「あそこに人がいるな」


 宿屋に近づくと、中から話し声が聞こえてきた。


「…また三人も消えた…」


「…もうこの村も終わりだ…」


「…あの司祭が来てから…」


 俺とアリア、レイナが顔を見合わせた。司祭?まさか、アシュヴィンのことか?


 俺は宿屋の扉をノックした。


「すみません、旅の者ですが」


 扉がゆっくりと開き、年老いた男性が顔を出した。


「旅人さんか…危険だから、早くここを去った方がいい」


「何が危険なんですか?」


 老人は周りを見回してから、俺たちを中に招き入れた。


「実は、この村に奇妙な司祭がやってきてからというもの、毎晩誰かが消えるんだ」


「消える?」


「ああ、朝になると家から姿を消している。まるで、夜中に誰かに連れ去られたように」


 俺の胸に嫌な予感が走った。


「その司祭は、どんな人でしたか?」


「黒と金のローブを着た、美しい顔の男だった。声は優しかったが、目が…目が冷たかった」


 アシュヴィンだ。間違いない。


「何か他に、変わったことはありましたか?」


「ああ、村の古い遺跡に興味を示していた。『この土地には古い力が宿っている』と言っていた」


 俺とアリアが顔を見合わせた。


「ありがとうございました。私たちは、その司祭を探しています」


 老人の顔が青ざめた。


「やめておけ。あの男は危険だ」


「大丈夫です。私たちには、対抗手段があります」


 俺たちは宿屋を出て、村の外れにある遺跡に向かった。


「いよいよね」レイナが緊張した面持ちで言った。


「ああ。でも、まだ準備段階だ。本番は三日後だ」


「そうね。今日は偵察に留めましょう」


 遺跡は思っていたより大きかった。古い石の建造物が、森の中にひっそりと立っている。


「誰かいるな」アリアが小声で言った。


 確かに、遺跡の周りに人影が見える。カルトの信者たちが警備をしているようだ。


「数は?」


「十人前後。でも、全員が武装している」


「厄介だな」


 俺は遺跡の構造を観察した。正面からの侵入は困難だが、裏手に小さな入り口があるようだ。


「レイナ、あそこから入れそうか?」


「多分大丈夫。でも、中で迷子になりそう」


「大丈夫だ。俺が道案内する」


「頼もしいわね」


 俺たちは夕方まで遺跡の周辺を調査し、村に戻った。明日からの作戦を練るためだ。


 宿屋で夕食を取りながら、俺は考えていた。アシュヴィンとの対決が、ついに近づいている。


「黒崎」アリアが小声で言った。


「何だ?」


「明日、遺跡に入る前に…一つだけ聞きたいことがある」


「何でも聞け」


「もし、私があなたたちの足手まといになったら…置いていってくれ」


「馬鹿を言うな」俺は即答した。「俺たちは最後まで一緒だ」


「でも…」


「でもじゃない」レイナも口を挟んだ。「私たちは仲間でしょ?仲間は見捨てない」


 アリアの瞳に涙が浮かんだ。


「ありがとう…本当に」


 俺は彼女の手を握った。


「約束する。俺は君を守る」


「私も、あなたたちを守る」


「私たちも一緒に戦う」レイナが力強く言った。


 三人で手を重ね合った。明日からの戦いに向けて、結束を固めた瞬間だった。


 夜が更けていく。明日は、いよいよアシュヴィンとの対決が始まる。


 俺は窓の外を見つめながら思った。必ず、この戦いに勝つ。そして、アシュヴィンを救う。それが、俺たちにできる、最後の希望だ。


 そう信じて、俺は眠りについた。

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